6.『日蓮の霊言』を読む⑥ :: 2007/01/30(Tue) |
20070130(20090303) 00364 6.『日蓮の霊言』を読む⑥
二章 指導霊日蓮聖人の霊訓(パート4)
憑依に悩まされている人へのアドバイス その1
富山誠としては、とにかく、どっちが悪いのかということをハッキリさせたいのでしょうね(^^;。正義は、「勧善懲悪」でなければならないのではないのか!?、こういう思いが強いと思います。憑依されて苦しんでいるのはこっちだ。なのに、なぜ、俺ばかり、高級霊から厳しい説教をくらわなければならないのか。なぜ、憑依している地獄霊を懲らしめてくれないのか?、なぜ、彼らを見逃すのか?、なぜ、彼らには甘いのか?、おかしいんじゃないか?・・・・・・。こうした不公平感を感じているのではないかと思います。
これに対する日蓮の霊言を紹介しておきます。
憑依は、「類は友を呼ぶ」法則に基づいているのですね。この法則をさらに詳しく言うと、「類は、類を呼び、類でないものと反発しあう」法則だということになります。つまり、憑依される側と憑依する側は、似た者同士だということなのです。憑依された側にも、原因があるということ。地獄霊を呼び寄せるような類の想念を発していたということなのです。だから、「地獄霊が悪い」と一方的に責めることはできないのです。自分自身も地獄霊のような生き方をしているのに、地獄霊だけを一方的に責めるというのは、非常に「自己中心」的です。ま、要するに、この「自己中心」的というのが、地獄霊の特徴なのであります(^^;。
「類は友を呼ぶ」法則で重要なのは、増幅作用がある点です。地獄霊と回路がつながっていると、「悪想念」が増幅させられるのです。たとえば、健全な人であっても、イヤなことが続いたりすると、いい加減、腹が立ってくるものです。しかし、彼らは、意識的に心を調整して、速やかに健全な心の状態を取り戻すことができるのです。ところが、憑依されるような人は、ちょっと腹が立つことがあると、それが、どんどんどんどん膨らんでいくのですね。それは、たとえるならば、怒りの波動が起こると、「類は友を呼ぶ」法則で、地獄霊との回路がつながって、地獄霊からマイナス・エネルギーが、どんどん流れ込んでくるというイメージです。
なぜ、こんなに腹が立つのだろう?と、自分でも不思議なぐらい、腹が立つことがあると思います。おそらく、そういう時は、地獄界と同通してしまって、増幅作用によって、「怒り」が膨れ上がってきた状態だと考えられるのです。だから、深呼吸をして、冷静さを取り戻さなければならないです。そういう「怒り」の波動に、常時、身をゆだねていると、やがて、地獄界と己の心に、本格的な通路ができてしまうのです。そうなると完全憑依される可能性が出てくるので、非常に危険なのです。通常は、時々憑依されるぐらいなのです。だから、憑依されていない時に、反省したり、神理の話しを聞いたり、読んだりして、心を健全にしていくことができるのですが、完全憑依されると、それができなくなるから、廃人までいってしまうことがあるそうです。気をつけましょう。
憑依に悩まされている人へのアドバイス その2
これは「光明思想」ですね。地獄的な想念は、地獄的なものを創造し、地獄的なものを引き寄せる。逆もまた真なのです。天国的な想念は、天国的なものを創造し、天国的なものを引き寄せる。一体どちらを選ぶのか?、ということです。選ぶのは、自分自身なのです。自分の心の状態を決めるのは、環境ではなくて、自分自身の気合い一つなのです。恵まれた環境にありながら、道を誤ってゆく人もいる。最悪の環境でも希望を失わない人もいる。すべては己の心ひとつなのです。「光」を選ぶのか、「闇」を選ぶのか、さあ、どっちだ?・・・。私たちは、一瞬一瞬これを試されているようなものなのです。
「この世」で生きていると、ただ流されていくだけならば、どうしても「闇」の方に傾いていくものなのです。だから、私たちは、意識的に「光」を選択していく必要があるのです。それが「魂修行」だということもできるでしょう。そう簡単にできることではないのです。やはり、努力精進が必要だということなのです。
或いは、こう考えるものもおもしろいかもしれません。たとえば、「光」の部分が5点、「闇」の部分が6点あるとする。この場合、総合計で「闇」の方が1点多いから、この心の状態は、地獄的な心の状態であると言えます。死後、地獄に行くか、天国に行くか、単純化すると、これは、心の「光」と「闇」の割合で決るのです。「光」が50%を超えていたら、何とか天国に戻れるのです。で、どうすれば天国的な心にできるのか? 正法者というのは、「反省」が大切だから、とにかく「反省」して「闇」の部分を減らさなければならないと考える。たとえば、「反省」によって「闇」を2点減らせば、「光5」対「闇4」になって天国的な心になれる。だから、「闇」を点検して、「闇」を消し込んでいこう、と考える。ところが、「闇」というものは、見つめれば見つめるほど、深くなっていくことが多いのですね。「闇」を退治しようとして、いつの間にか、「闇」に魅入られてしまう。「闇」を増幅させてしまうのです。
だから、発想を転換して、「光」を増やす努力に切り替えて見るというのはどうでしょうか。たとえば、「光」を2点増やせば、「光7」対「闇6」で、「光」の方が多くなります。これで天国的な心の状態です。「反省」で「闇」を全部消し込んだとして、プラス・マイナスで「光5」点です。でも、「闇」をそのままにしておいて、「光」を10点プラスすれば、「光15」対「闇6」で、プラス・マイナスで「光9」点になります。こうなってくると、結果的に、「反省」するよりも、「光」を増やす努力の方向性の方が、効果的だということになります。
まあ、これはあくまでも一つの考え方です。実際は、こんな単純な足し算引き算ではないと思います。でも、考え方としては、一応、この通りなのですね。一番いいのは、「闇」の領域を減らしつつ、「光」の領域をどんどん広げていくことです。「反省」だけにこだわって、小さくまとまって、それで終わってしまったら、何のために生きたのか分からない。「光明思想」にこだわって、己の「闇」の部分をそのままにしておくのも、偏った考え方です。両方のいい部分を取り入れるのがいいのですね。「止悪・作善」の両方が大切だと思います。
ただ、「闇」とか「悪」に、向き合っていると、なぜか、変な方向へ行ってしまうことが多いのです。スーパーとかで万引きを監視するような仕事をやっていると、陰鬱な雰囲気の人間になってしまうことが多いそうです。人を疑いの目で見ていると、どうしてもそうなっていくのですね。それは、「反省」にも言えることなのです。バランスの取れていない「反省」をやっていると、どうしても、「闇」に引きずり込まれてしまうことが多いのです。だから、常に「光」に向かうことを意識しておく必要があるのです。まず、とにかく、良き思いを発信していく。良いことを行っていく。そういうふうにして、心の向きに、はずみをつけることが大切なのです。「光」の方向に勢いをつけておく。そうすると、「闇」と対峙した時でも、そう簡単には引き込まれはしないのであります。
憑依に悩まされている人へのアドバイス その3
「人は、二つのことを同時に考えることはできない」。まあ、これは当たり前のことです(^^;。私たちは、自由意志を与えられていますから、いつ、何を思っても、その人の勝手なのです。しかし、その時、思うことができるのは、「一つ」だけなのです。何を思うか?、それは無数の選択肢があります。その中から、一度に一つだけを選んで、それを思っているのです。
だから、苦悩している人は、その時、自分自身で、苦悩をすることを選択して、そして、苦悩しているということなのです(^^;。「いや、そうじゃない。苦悩したくて苦悩しているのではない。なぜ、わざわざ、自分で選択して、苦しまなければならないのか?そうじゃなくて、苦しい状況だから、苦しんでいるのだ」・・・・・・、こうした意見もあると思います。説得力があります。しかし、同じような状況にある人々が、みんな、同じことを考えるでしょうか?たとえば、会社の仲良し五人組の一人が、ある日、大抜擢されて、部長になった。他の四人は平社員のままだ。さあ、四人とも同じことを考えるでしょうか?人それぞれなのですね。
同僚の出世を見て、心穏やかでない人もいるだろうし、心から喜んでいる人もいるだろう。だから、苦しい状況だから、苦悩しなければならないということではないのですね。苦悩することもできるけど、他の選択肢もあって、それを選ぶこともできるのです。人間の考え方というのは、こういう状況の時には、こう思わなければならない、というふうな不自由なものではないのです。だから結局、「苦しい、苦しい」と思っている人は、苦悩することを自ら選択して、苦悩している・・・、ということになるのです。
これは、苦悩することを選ばず、他のことを選択して、それを思えば、「苦悩」は、自然に消えるということです。「人は、同時に二つのことを考えることができない」ということであります。ま、これは理論上のことであって、実際、そう簡単にできることではありません。苦しい状況の時は、誰だって、「苦悩」を選択して、「苦悩」するのが普通なのです。しかし、環境や境遇の変化に合わせて、己の心がカメレオンのように、コロコロと変わるのならば、人間はいつまでたっても「幸せ」になることなんてできないだろうと思います。幸福は、運次第だということになってしまいます。今日は、晴れたから、幸せだ。こうした人は、雨が降ると「不幸」になってしまうのですね(^^;。
しかし、本当はそうじゃない。雨が降ったから、「不幸」になったんじゃなくて、自分自身で「イヤだな、不幸だな」と思うことを選択して、そして自分自身で「不幸」になっているというのが、実際のところなのです。雨が降っても、雨の雰囲気を味わって、豊かな気分に浸ることのできる人もいるのですね。その人の考え方次第なのです。環境次第だとか、運次第だとかいって、そうしたことで誤魔化しているあいだは、安定した幸福感を得ることはできない。やはり、己で己の考え方をコントロールすることが大切なのです。要は、明るい考え方を選ぶか、暗い考え方を選ぶか? このどちらかなのですね。
環境が悪かったとしても、明るいことを思う努力をした方が、結局自分自身にとってプラスになるのです。それは、簡単なことじゃない。難しいけど、その努力をしない限り、人間は、環境や境遇の奴隷のままであります。すべては運次第になってしまうのです。しかし、瞬間瞬間、心をコントロールして、明るい考え方を選び、心を明るくする努力をして行けば、徐々に自分自身の力で運命を開拓できるようになって行くと思うのです。結局、明るい思いの積み重ねが大切だということです。
一日の起きている時間の想念は、明るい想念と暗い想念の二つに色分けされています。そして、その割合によって、幸福度、不幸度というもが、だいたい分かるのです。幸せになりたかったら、明るい想念の割合を増やして行くことです。それは、本人の努力次第で、何とでもなるものなのです。最初は難しいです。苦しい時に、明るい思いを選択するのは、難しい。しかし、不可能なことではないのです。また、コツのようなものもあるのです。それを体得すればするほど、楽にできるようになってきます。
神理の本とか、偉人の伝記などを読むのも良いと思います。ヒントがいっぱいあるからです。偉人と呼ばれるような人は、「苦しい時に、積極的なことを考える」達人です。彼らが、どうやって困難を乗り越えてきたか?、これを学ぶことが一番良いです。ヒントにもなるし、共鳴して勇気や希望が湧いてきます。まあ、小説でも良いのですが、小説ははずれが多いので、定評のあるものに絞った方が良いでしょう。
憑依に悩まされている人へのアドバイス その4
憑依で苦しんでいる時は、まず体調を整えること。これは、意外に盲点なのですね。憑依で苦しんでいる人というのは、たいてい、夜型の生活です。しかし、人間は基本的に夜行性の動物ではありません。つまり、夜型の生活は、肉体の本来のリズムを乱し、当然、体調を崩してしまうものなのです。肉体と心は、相関関係でありますから、当然、体調が乱れれば、心も乱れていくのです。
「心」と「肉体」は、このような関係になっています。相乗効果です。循環して、どんどん良くなっていくか、どんどん悪くなっていきます。そして、波長同通の法則によって、次のような結果が生み出されて行きます。
まあ、100%、この図式通りになるわけではないのですが、たいていは、この通りになっていくのです。だから、憑依から逃れるための、一つの方法論として、「肉体を健康な状態に戻していく」という考え方は正しいのです。宗教だから、何でもかんでも、「心、心」と「心」に囚われる必要はないのです。「心」を正そうとしても、「心」というものは、目に見えないものですから、なかなか難しい面があるのです。だから、「心」と「肉体」の相関関係を利用しなさいということなのです。目に見える「肉体」を健全なものにしていけば、それに応じて、「心」のほうも健全となって行き、その結果、憑依から逃れることができるのです。
さて、人生では、色んな経験をしますが、こうしたマイナスの経験をどう考えるのか? 無駄な経験をした、人生の恥部だ、できるなら消してしまいたい・・・。こうした気持ちになることでしょう。自分の愚かさに怒り、地獄霊にも怒り、そして、救ってくれなかった神仏にも怒りがこみ上げてくる。あるいは、自己憐憫に陥り、世を恨んだり、妬んだり、かもしれません。しかし、この世での体験というものは、すべてをプラスに転換していくことができるものなのです。「反省」して、それを教訓に変えた時、どのような体験であっても、それはプラスに転換してしまうのです。
たとえば、柿には、甘い柿としぶい柿があります。こういうのは、両方を食べないと、その味の違いはわかりません。いつも甘い柿ばかり食べている人には、渋柿の味に関しては、どうしても分からないのです。だから、渋柿を食べてしまった人の気持ちも分かりません。「これは渋柿だから、食べたらダメだよ」と教えられていて、食べない人は賢い人。それでも、食べてみようと思い、食べてみて、そして「しぶい、しぶい」と顔をしかめている人は愚かな人かもしれない。しかし、長い目で見たとき、「酸いも甘いも噛み分けた」人間の方が、人情の機微に通じることができるものなのです。そうなってくると、「ダメだよ」と教えられたことはしない、品行方正で賢い人よりも、もっと経験豊かで、人情味があって、魅力的な人間に成長しているといえると思うのです。
また、渋柿だって、干しがきにすると、美味しくいただくことができるのです。「この世には無駄なものはない」、「この世には無意味なものはない」と申しますが、まったくその通りで、どんなものでも工夫次第で、有効活用できるものです。どんな経験も、教訓に変えてしまえば、珠玉の英知となって、魂の輝きに彩りを加えることになるものなのです。
仏教には、「十界互具(じっかいごぐ)」という考え方があります。簡単に言うと、地獄界の一番下で苦しみにあえいでいる人の心の中にも、天上界最上段階にいます仏様の心の中にも、地獄と天国の両方が含まれている、という考え方です。地獄霊の心の中にも天国がある。だから、自分自身が天国的な思いを選択すれば、天国に戻ることができるということなのです。仏様であっても、心の中に地獄があって、地獄的な思いを選択すれば、地獄に堕ちてしまう。こういうことなのです。
もし、地獄霊の心の中に天国がなかったならば、地獄霊は永遠に地獄霊のままなのですね。もし、仏様の心の中に地獄がなかったなら、仏様には、地獄霊たちの気持ちを理解することができません。だから、地獄霊を救済したいという慈悲の心も生まれなかったでしょう。地獄など無駄だから、害になるから、消去しよう・・・・・・。このように考えてしまったと思うのです。
地獄霊と仏様は、水と油の関係ではないのであります。水と油は交わることがありませんから、水は油を知らないし、油は水を知りません。水は油になれないし、油は水になれない。だから、水は、油が苦しんでいたとしても、それを理解することができないし、助けてあげたいなどと思うこともありません。もし、地獄霊と仏様が、水と油の関係ならば、地獄霊は永遠に天国に入ることができない、ということになってしまうのです。
しかし、仏様の心の中にも地獄があるからこそ、仏様には地獄霊の気持ちが手に取るようにわかる。だからこそ、救いの手を差し伸べようとするのです。地獄霊の心の中にも天国がある。だからこそ、彼らも、やがて救われて行く可能性があるということなのです。地獄霊が、単なる河原の石ころならば、どれだけ磨いたところで、石ころは石ころのままです。しかし、そうではなくて、内に仏の心を秘めている。だから、磨けばダイヤモンドのように輝くということなのです。
ま、「十界互具」というのは、我々凡夫にとっては、「希望の原理」なのですね。ただ、この説は一方で、如来であっても、一歩間違えれば、地獄に転落していく可能性があるということを示唆しています。つまり、「どんなに偉い教祖さんでも、間違う可能性がある」ということです。これも非常に大切な考え方だと思います。これを知っておくと、救世主信仰や盲信・狂信の罠にはまることもないでしょう。
とにかく、天国も地獄も、自分自身の心の中にあるということ。地獄的なことを思えば、地獄につながり、天国的なことを思えば、天国につながる。いつもいつも天国につながっていることができるのならば、それに越したことはないと思いますが、実際は、そううまく行きません。色んな間違った経験をします。しかし、そうした間違った「思い」と「行い」を経験することで、そうした経験の苦さを知り、それを珠玉の英知に変えていくことができる。そうした経験があったからこそ、より大きな人間として成長していくことができる。他人の心の痛みが分かり、何とかしてあげたいと思えるような、心の豊かな人になることができる・・・。このように思うのです。
ただ、こうしたことは、後になって分かってくることです(^^;。後にならないと分からないのですね。その時は、どうしても分からない。ただただ苦しいだけです。真っ暗なトンネルを、手探りで、あてもなく歩いているような感じです。一条の光すら見えない闇の中を彷徨することが、どれ程つらいことか。しかし、それをくぐり抜けて、しばらくすると分かってくるのです。実は真っ暗なトンネルではなかった。ただ、自分自身が太陽に背を向けて、目を瞑って、彷徨っていただけのことだと。神様はいつもいつも、手を差し伸べていてくださっていた。でも、その手を振り払っていたのは自分自身だったということ・・・。後になって、分かってくることなのです。非常に厳しい修行だと思います。
「虎穴に入らずんば、虎子を得ず」でありまして、本当に価値あるものを体得するためには、やはり、それに見合った厳しい経験が、どうしても必要だということなのです。安全な場所で、法理論だけを学んでいても、本当の力とはなりません。有益な知識ではありますが、魂の力とまでは、なりえないのです。その知識を、現実の厳しさの中で実践して、そこから生まれる苦しみの中から、本物の光が輝き出してくるものなのです。今、苦しみの中にある人は、それを信じて耐え抜いて行くしかないのですね・・・。突き放した言い方になりますが、それが魂修行だということなのです。
この世の修行で、最悪の結果は何でしょうか。失敗して死んでしまうことでしょうか。でも、生命は永遠です。本当の意味での死はありません。地獄に落ちることでしょうか?しかし、魂の本質は「神仏の子」であります。どれだけ長く地獄に落ちていようが、この光り輝く本質だけは、まったく変わることがありません。心の曇りを取り除けば、内側から本当の自分の光が現れてくるのです。だから、どんなに苦しくとも、どんなに悲惨だったとしても、初めから救われているということを信じて、一歩一歩前進していきたいと思うのであります。 |
7.『日蓮の霊言』を読む⑦ :: 2007/01/30(Tue) |
20070130 00219 7.『日蓮の霊言』を読む⑦
二章 指導霊日蓮聖人の霊訓(パート5)
憑依に悩まされている人へのアドバイス その5
この質問に対する日蓮の霊言を、以下に紹介しておきます。
「霊界通信」は、波長同通の法則に基づいています。つまり、霊媒の心の状態に応じた霊界からのメッセージが降りてくるということです。ある人が、七次元の悟りを開いたとします。しかし、その人の心の状態が、いつも七次元の悟りの状態とは限りません。瞬間瞬間で心の状態は移り変わって行きます。ある時は、心が澄んで、八次元に通じていることもある。こうした時は、一時的に八次元からのメッセージを受けることもできるということです。或いは、心の調和を失って、地獄に通じてしまうこともある。そうした時には、残念ながら、高級霊界からの通信を受けることはできなくなっているのです。
だから、悟ったからといって、安心してはいけない。霊道を開いたからといって、油断してしまってはいけないのです。「霊道を開く」とは、要するに、霊界に行くことができるということ。霊界に道がつながると考えればよいでしょう。守護・指導霊と交流できるということなのです。まあ、そういうことができれば、普通人から見れば神様のような存在に見えます。で、みんなが「先生、先生」と呼び始める。すると、本人もだんだんその気になってきて、偉くなってしまtって、やがて慢心して行く・・・・・・。ハッキリいって、慢心した状態というのは、もう、地獄界に通じているのですね。そしていつの間にか、宗教霊や動物霊なんかに、憑依されてしまうのです。
一度、悟りを開いたら、ずっとその心を維持できると思ったら大間違いなのであります。「反省」を怠れば、たとえ如来であっても、転落して行くことになるのです。このことが分からない人が多いのです。如来は退転しないと思い込んでいる。一度悟ったら、一生、神様のような気持で、ずーっと生きていけると思っている。そんな甘いものではないのであります。
人間は、霊道が開けると、慢心していくことが多い。自分は、特別の人間なんだと思ってしまう。普通の人よりも偉いと思ってしまう。周囲を見下してしまうのです。他人に頭を下げることができなくなってしまう。こうなってくると、円満に社会生活を営むのが難しくなってくる。もう、占い師になるか、拝み屋になるか、教祖さんになるか、そうした自分が一番の特殊な世界でやっていくしかないのです。しかし、それではいけない。「行者の末路は哀れなり」、霊能力で飯を食う人の末路というのは、たいてい悲惨なものになってしまうからです。
だから、霊能力があっても、或いは、神仏より特別な使命を告げられているとしても、慢心せず、普通に社会生活を営んでいく努力が大切なのです。サラリーマンならサラリーマンとして、社長なら社長として、主婦ならば主婦としての、学生ならば学生としての、それぞれの本分というものがあって、それを、まず、しっかりとやることが大切なのです。霊能力を使って、ズルをしたり、霊能力を見せびらかして、「俺はちょっと違うんだよ」とアピールしたりしないことです。
偉大な霊能力を持っているのだけれど、周囲の人がまったく気付かないように生きている人。これを「偉大なる常識人」といいます。昔の中国の偉い人たちは、周囲の人に、「偉い人だ」と思われたら、「ああ、俺もまだまだだな」と思ったそうです。彼らは、自分の業績を隠すのですね(^^;。良いことをやっても、それを自分がやったと、アピールしない。それどころか、自分の痕跡を隠そうとする。だれが、やったか分からなくしてしまう。こうした偉人が、いっぱいいたと思われるのです。世に現われてこないのですね。
これは「陰徳」を積むという考え方もあるでしょうが、それよりも、功名心、名誉欲、自己顕示欲、増上慢・・・、こうした己自身の心との闘いだったと思うのです。才能を見せびらかすのは、「どうだ、俺はすごいだろう」といった思い上がりの心が、どこかに残っている。また、周囲から賞賛されたい気持ちがあるのでしょう。己にスポットライトがあてられて、人々から喝采を受けるのは、非常に大きな快感だと思う。そうした快感に酔いしれたいという気持ちがある。昔の中国の偉人たちは、そうしたことを嫌ったのです。
だから、「偉い」と評価を受けると、「しまった!」と思って、「自己顕示欲が出ていたのではないか」と、猛省すること。霊能力を持っている人も、そういう気持ちが大切です。その偉大な才能を誇示せずに、人知れず、良いことに使うことです。有名人になろうとしないこと。教祖になったり、己の力の広告本を書いたりして、名を売ろうとしないこと。そういう謙虚な気持ちで生きていると、地獄霊も手出しできなくなってくる。地獄霊たちは、功名心、自己顕示欲、名誉欲に付け込んでくるものですから。
才能豊かな人は、どうしても、人に己のすごさを知ってもらいたいたくなるもの。そりゃ、人から褒められると、やはり、誰だって気持ちがいいものです。その気持ちよさを味わうために、己の技を見せびらかしたくなる。スプーンを曲げてみたり、予言してみたり、「オーラが見える、霊が見える」と言ってみたり、ついそういうことを見せびらかしてしまう。そういう心に、地獄霊が忍び寄ってくるということであります。だから、霊能者は、「己の力を隠すことが修行なのだ」というぐらいの気持ちが必要なのです。そういう修行を十年、二十年続けていると、いぶし銀のようになってきます。本物のすごみが出てくる。もう、隠そうとしても、隠しきれなくなってくる。ここまで来れば、そう簡単には堕落しないと思います。
悪霊のせいにするな、ということです。波長同通の法則を忘れてはいけない。自分自身が悪霊のような波動を放っているから、それに感応して悪霊が近づいてくるのだということを忘れてはならない。悪霊も悪いけれど、自分自身にも責任があるということ。自分の責任を棚に上げて、悪霊ばかりを非難、批判するのは、身勝手なのです。その身勝手さ、自己中心的な心が、さらに悪霊を呼び寄せるということを知らねばならないと思います。悪霊を遠ざけたいのなら、悪霊をどうこうしようとするよりも、まず己自身の心をどうにかすることであります。まず己の心を治めよ。浄化せよ。そうすれば、悪霊のほうが、近づきたくても、近づけなくなってくるのであります。
「自力あっての他力」。「天は自ら助くるものを助く」ということです。太陽の光は常に放たれている。しかし、こちらが背を向けたり、目を瞑ったり、陰に隠れたりしていると、太陽の存在が、分からなくなってしまいます。自分で背を向けておきながら、「太陽よ、どこへ行ったのだ。太陽は我を見捨てた!」などと絶叫してもダメなのです。これは、太陽が悪いのではない。自分が悪いのです。だから、自分を改めて、太陽に向かうことです。目を開くことです。日陰から太陽の下に出てくること。自分自身が動くことです。そうすれば、太陽の光がいつもそこにあったことを思い出すだろう・・・・・・、これが「自力あっての他力」だということです。
守護・指導霊も太陽と同じです。彼らはいつも手を差し伸べているのであります。手を振り払っているのは、こちら側なのです。それなのに、「俺の守護・指導霊さんは、怠け者で、少しも俺を守ってくれない」などと叫んでいる。自分が生きているのだから、自分が生きなきゃならない。それなのに、自分から動こうとしないで、「あの人がやってくれないから」とか、「神様に見捨てられた」とか、「教祖に騙された」とか、「悪霊に苦しめられて、どうしようもない」とか、そういう言い訳ばかりしている。こういう主体性のない生き方では、守護・指導霊のほうも、守護・指導したくてもできないのであります。
「正法神理」では、「心」と「肉体」と「経済」、この三つが大切だといいます。
「正法神理」でいうところの「経済」とは、①や②の意味だと思います。社会全体の問題としての「経済」も重要なのですが、ここでは、②の意味、個人的な問題としての「経済」を考えてみます。要するに、各人の生活の環境、ぶっちゃけていうならば、「家計のやりくり」、「銭の問題」です(^^;。宗教者は、「お金」については、俗っぽいということで、あまり触れませんが、実際問題、人間の幸せにとって、非常に重要な役割を果たしております。「お金さえあったなら、こんな苦労をしなくてもいいのになあ」、こうした苦しみを、いくつもいくつも体験していると、心まで貧しくなってしまうものです。
「衣食足りて礼節を知る」という言葉があります。今日のお米すらないというような状況にある人は、神理がどうとか、愛がすべてだとか、そんなきれいごとを言ってる余裕がありません。やはり、生活にある程度余裕ができてこそ、高尚なことを考える余裕が出てくるということです。お金のことで、自殺する人もいるし、殺人事件が起こったりもするのです。だから、経済の問題、家計のやりくりの問題は、非常に大切なことなのです。宗教的な人は、どうしても「お金」を軽視しがちであります。貧乏であることを、善人の証明とでも思っているのでしょう。しかし、「正法神理」では、個々人の経済問題も重要視しているのです。
で、どれぐらい潤うのが良いのか?これが問題なのです(^^;。現代人の感覚でいうと、「お金は、あればあるほどよい」と考えると思います。しかし、「幸せ」とか「心の安らぎ」という観点から考えると、そうでもありません。独断と偏見で、その範囲を決めるとすると・・・・・・(^^;。 「今日の米がない」、・・・・・・これはひどいですね(^^;。使い切れないぐらいの富を所有しているのに、まだ、求めるようなガリガリ亡者の生き方、・・・・・・・これも極端です。最低ラインは、「衣食足りて」という生活であること。そして、余裕の出てきた人は「足ることを知る」生活。この間ぐらいが中道の生活ではないかと感じます。これは、まあ、一般論なので、すべてに当てはまる考え方ではありません。でも、我々凡人が「幸せ」を求めるのならば、この範囲内が良いのではないかと思います。
あと、第五のアドバイスがあるのですが、かなり個人的なものなので、それは飛ばして、
地獄霊に憑依されている時は、「感謝」の気持ちを忘れているはずです。「地獄霊に憑依されて苦しめられているので、感謝なんかできない。地獄霊から救われたら、感謝します」・・・・・・、こう思う人も多いでしょう。しかし、そうではないのです。
「感謝」を忘れていたから、地獄霊に憑依されてしまったのだということ。根本原因は、自分自身にあったということを忘れてはならないのです。己が、「感謝」すらできないような人間になっていたということ・・・・・・、これを知れ、ということなのです。この世には、よく考えてみれば、感謝すべきことが幾らでもある。それなのに、感謝すべきことに感謝もせず、不平不満ばかりをもらしている。あるいは、自分のことを棚に上げて、他人の批判ばかりやっている。こんな卑しい心根では、地獄界に同通してしまっても仕方がないのであります。結局は自分の心の問題なのです。
だから、「地獄霊を追っ払ってくれたら、感謝します」じゃなくて、地獄霊がいようがいまいが、そんなことに関係なく、感謝する気持ちを取り戻したいという意欲が大切なのです。自分自身が、そういう気持ちにならなければ、周囲はどうすることもできない。周囲がその人に感謝させることは絶対にできません。感謝は自分自身がするもの。これも自力なのです。感謝できないような状況だったとしても、自分自身が「感謝」の心を取り戻したいと思ったならば、必ずできるようになってくると思います。本人が、そういう気持ちになった瞬間に、守護・指導霊に心が通じるそうです。
それは、一条の光のようなもの。細い細いパイプです。しかし、守護・主導霊は、その微かな印を絶対に見逃すことはありません。守護・指導霊は「待ってました」とばかりに、そのパイプを足がかりにして、何とか良い方向に持っていこうとして、獅子奮迅の働きをされるのであります。本人がそうした気持ちを持ち続けるならば、守護・指導霊の導きにより、必ず、「感謝」の気持ちを取り戻すことができると思います。そして、「感謝」できるようになったらば、必ず事態は好転して、憑依現象から脱出していくことができると思うのであります。
憑依に悩まされている人へのアドバイス その6
「憑依」も、「霊界通信」と同様、「類は友を呼ぶ」法則に基づいています。つまり、自分自身の心が、まるで悪霊のごとき状態だから、地獄界の悪霊を引き寄せるのだということです。だから、憑依の原因は自分自身にあるということであります。じゃあ、偉いお坊さんとか、神父さんとかは、心が立派だから、憑依なんか、無関係なんだろうな・・・・・・、と思ってしまいます。ところが、あにはからんや、無関係ではないということです。それどころか、日蓮聖人などは、一生の間、悪霊に苦しめられたということであります。
それはどういうことか? つまり、こういうことなのです。立派な人というのは、世の中に、良き影響を与えます。だから、その人の周囲が光明化していきます。こうした状況というのは、地獄霊たちにとっては、死活問題なのです。地上が光明化されていくと、巡り巡って、地獄界が縮小化していきますから。だから、地獄霊にとって、立派な人たちというのは、打ち倒さなければならない「敵」だということなのです。だから、「類」でないのに、近づいてくる。悪意を抱いて、忍び寄ってくる。
立派な人の近くにいて、様子を窺う。何かヘマをしないかと、じっと様子を見ているのです。あるいは、ちょっかいを出して、揺さぶりをかけていきます。色んな罠を張り巡らせるのです。そして、ちょっとでも心が動揺したら、食らい付いてやろうと、身構えているのです。だから、立派な心の人も、地獄霊を引き寄せてしまうということです。もちろん、心の方向性が、まったく逆ですから、通常は、憑依されることはありません。しかし、彼らの罠にはまって、心を乱してしまうと、その乱れた心の部分が、同通してしまうことがあるということです。
立派な人ほど、強烈に狙われている。イエス様やお釈迦様のような立派な人を邪魔しようとして近づいてくるのは、魔王クラスの地獄霊です。「類は友を呼ぶ」法則に従えば、魔王を呼び寄せるのは、魔王クラスの人間ですが、イエス様やお釈迦様のような偉大な人物もまた、魔王クラスの地獄霊を呼び寄せるということなのです。今まさに「正法」が広がらんとしている時、魔が競い立つということであります。富山誠が、魔王クラスの地獄霊に苦しめられたのは、そういう事情もあったのだと思うのです。法則から見れば、富山誠の心の間違いが魔を引き寄せた、ということですが、別の見方をすれば、大きな使命を持った人間だからこそ、魔王が近づいて、スキを窺っていたということなのです。そして、ちょっとした心の不調和に付け込んで、富山誠を籠絡していったということです。
我々一般人が、ちょっとした心の不調和を起こしたとしても、魔王はやってこないのですね(^^;。でも、偉大な人が、小さなミスでも犯そうものならば、魔王は躍起になって、そこに付け込もうとします。まさに虎視眈々。だから、偉い人ほど、気を引き締めなければならないということなのです。ちょっとした心の不調和が、大変なことにつながって行くからです。たとえば、イエス・キリストのような人が、もしも、地獄霊に負けて、間違った法を説いてしまったならば、その悪影響というのは、想像を絶するのですね。二千年、三千年後の人々にまで被害が広がり続けていきます。ま、それが魔王たちの狙いでもあります。
われわれ凡夫を一万人、二万人、地獄に引きずり込むより、トップを引きずり込む方が効果的だということです。トップ一人を落とせば、後は、芋づる式です。だから、魔王クラスは、われわれ凡夫には見向きもしない(^^;。小物は小物の魔に任せておいて、自分たちは、如来や菩薩クラスの霊格をもった大物を狙っている。実際問題、小物の魔では、偉大な人たちを堕落させることはできないと思います。やはり、魔王クラスの悪知恵が必要なのですね。まあ、そういうことで、日蓮聖人のような大宗教家でも、一生の間、魔に苦しめられたということなのです。それは、必ずしも、日蓮聖人の心が魔に通じていたからというわけではなくて、彼の持つ大きな使命ゆえのことであったということなのです。
「病を治したければ、病のことを忘れるとよい」といいます。たとえば、胃が痛くなると、胃に意識が集中していきます。そして、「痛いなあ。どうしたんだろう?もしかしたらガンかかも知れない・・・・・・。ああ、どうしようか。もしそうだったら死んでしまうかもしれない。そしたら、年老いた両親や、妻や子供たちはどうなるのだろうか?まだ死ねない。死にたくない。でも、ガンだったら・・・・・・。そういえば、最近、肩こりがひどい。もしかしたら、ガンが全身に転移しているのかもしれない。ああいやだ・・・・・・。ガンはいやだ・・・・・・」と、果てしなくマイナスの想念が広がっていくのですね(^^;。実は、このマイナス想念が病気をどんどん悪くしてしまうのです。
もし、悪い連想をしないで、「ああ、お腹が冷えたのかなあ。気をつけなきゃね」ぐらいで、止めていたら、次の日は、治ってしまっていることが多い。特に「胃腸」は、マイナス想念に弱いから、心配すれば心配するほど悪くなっていきます。たいした病気でもなかったのに、無視していれば、すぐに治るような病気だったのに、不安の連鎖によって、取り返しのつかない病気にまで進展してしまうことがあるのです。だから、「病を治したければ、病のことを忘れるのが良い」ということが、昔から言われているのです。
ただ、そうだからと言って、気を失うぐらい痛いのに誤魔化してはいけません。「これは、今までと違う。おかしいな」と思ったら、早めにお医者さんに見てもらうべきだと思います。「生長の家」の教えなんかでは、「医者も薬も必要ない」って感じですが、あれは、ある程度の宗教的信念を持っていないと、できないことなのです。だから、一般的には、医者も薬も必要なのだと思っておいたほうが良いと思います。
地獄霊への対応も、「病」と同じであります。「憑依」されたとか、されていないとか、そんなことを気にするな。そんなことを気にして、ウジウジと考えることが、自分の心の明るさを、さらに奪ってしまうのだ。「憑依」は、心の暗い人間に起こるものなのに、自分で自分の心を、さらに暗くしてどうするのだ。「憑依かも?」と思ったら、クヨクヨせず、逆に、胸を張って、背筋をピンと伸ばして、明るいことを考えて、心を明るくする必要があるのです。人間は同時に二つのことを考えることはできない。だから、クヨクヨと考えるか、前向きなことを考えるか、そのどちらかだ。さあ、どちらを選ぶのか?、ということです。クヨクヨ考えたら、悪くなっていくのですから、私たちは、明るく前向きに考えて行くべきなのです。それで、事態が悪くなったとしても、それはそれで仕方ない。クヨクヨ考えていたら、もっともっと事態が悪化したに違いないのであります。
こうした積極的な心の力については「光明思想」を学ぶと良いと思います。特に何でも悲観的に考えてしまう人は、そうするべきだと思う。そうした「心の傾向性」というものは、そのままにしておけば、さらに悪くなっていく場合が多い。悲観的な人は、どんどん悲観的になっていくものなのです。どこかで歯止めをかけなければ、大変なことになる。その対策としては、「明るい考え方」を学ぶのが一番良いと思う。まあ、「他力」も良いのですが、長い目で考えれば、「明るい考え方」ができるようになった方が良いと思います。
ユーモアのセンスを磨くのも良いです。ブラック・ユーモアはダメですが(^^;。無邪気な笑い、ほのぼのとした笑い、心が温かくなるような笑いがあると思います。そういう感覚を磨くことです。映画などで、ラブ・コメとかロマ・コメいう分野があります。ああいうのを見ると、ケッコー、忘れていたものを思い出すものです。本当につらい時は、そうした映画を見ても「焼け石に水」ですから、本当につらくなるような状態にならないように、予防策として、時には、そうした映画でも見ることをお勧めします。小説でも、マンガでも良いのです。心が温かくなるようなものを読んでおくことです。そうしておくと、自分では分からなくても、それが歯止めになっていて、いつの間にか明るい心に切り替わってゆくものです。
個人的な話しですが、昔、すごく心が苦しかったとき、「笑うことだ」と教えられて、漫才とか落語とかコメディを見るようにしました。正直言って、苦しすぎて、「焼け石に水」だったのですが、とにかく、それ以外に、いい方法が浮かばないから、見続けていた。今から思うと、自分でも気付かないうちに、少しずつ少しずつ心が癒されていたのでしょうね。いつしか、人間の心の温かさというものを思い出すようになってきたのです。
それ以来、自分流のユーモアについて考えるようになりました。とりあえず、自分がおもしろければいいのですよね(^^)。一人でニヤニヤされるのも困りますが。でも、公共の場で、思い出し笑いをこらえるのは、なかなか難しいか・・・・・・。笑ってはいけないと思えば思うほど、おかしくなってきます。人間とは天の邪鬼な生き物です。とにかく、ユーモアは視点だと思います。同じ漫才を見ていても、みんな視点が違うから、笑っている人もいれば、おもしろくないといって、ムスッとしている人もいる。おもしろくなくても、そのおもしろくないところが、逆におもしろいというぐらいの感覚を身につけることです。これは「光明思想」につながると思います。箸が転んだのを見て笑うぐらいまで行くと、筋金入りです。それぐらいを目指そうではありませんか。そこまで行けば、悪霊も病いも、しっぽを巻いて退散することでしょう。
私たちは、ものの見方を変えることで、精神的に救われることがあります。たとえば、50キロオーバーのスピード違反でつかまって、免許停止処分となり、罰金も支払うこととなったとします。たいていの人は「運が悪かった。警察は、一般庶民から金を取ることばかり考えている。ひどい話しさ・・・・・・」といった感じで、そもそも自分が危険な運転をしていたから、つかまったということを「反省」することがない。そして、「これからは、つかまらないように、うまく違反をしよう」なんて、考えたりします(^^;。こういうものの考え方では、いつまでたっても、本当の「幸せ」を感じることはできないでしょう。
では、どう考えるのか? たとえば、「運が悪かった」というけれど、「運が良かった」と考えることもできるのですね。その人が、その時、つかまったから、大きな事故を回避できたのかもしれない。その人が無茶をやって、その人自身が大怪我をしたり、死んだり、その人の車が大破したりしても、それは別にかまわない(^^;。誰のせいでもなくその人の責任だから。しかし、もし、その事故で、大勢の人の命を奪ったり、誰かを半身不随にさせてしまったりした場合、どうするつもりなのか、責任を取れるのか?ということです。
安全運転をしていても、ちょっとしたミスで事故を起こして、他人に迷惑をかけてしまうことがあるものです。しかし、その場合、安全を心掛けていた分、「良心の呵責」で苦しむ度合いも、比較的少ない。でも、いい気になって暴走していて、大事故を引き起こして、人を殺してしまった場合、目も当てられません。その日を境に人生が一転してしまう。地獄のような日々の始まりです・・・。そういう視点に立った時、スピード違反で捕まって、痛い目にあったことは、むしろ「運が良かった」と思えてくるものなのです。
私も、免許を取った頃は、舞い上がってしまい、よく無茶な運転をして、つかまったり、事故を起こしたり、怪我したり、人を怪我させたり、そういうことを繰り返していました。でも当時は、「運が悪かった」と思っていました。そして、その挙げ句、バイクで、レースまがいのことをして、赤信号に気付かないで交差点に突っ込んで、事故を起こしてしまいました。相手の方は、たいした負傷がなかったのが、せめてもの救いでした。私のバイクは、ローンを残したまま大破。相手のかたの車も、廃車にするかどうか、迷うぐらいだったそうです。一歩間違えれば、即死してしまうぐらいの速度で衝突しましたから、今、生きているのは、本当に運が良かったと思います。でも、膝の古傷は、今も痛みます(^^;。
その頃は、「正法神理」を学び始めた頃で、一応、やっていいことと悪いことの区別ぐらいはついていたのですね(^^;。ところが、実際やっていることは、そのようなことをやっているわけですから、お話になりません。でも、さすがに、その事故を起こして、ようやく目が覚めたのです。今にして思えば、「本当に運が良かった」と感じるのです。目を覚ますきっかけとなった事故が、その程度のもので済んだのですから・・・。もし、あの時、誰かを殺してしまっていたらと思うと、ぞっ、とします。ま、こうしたアホなことをやっていたので、「運が悪い」と嘆く心理状態が、いかに危険な状態であるかが、ある程度分かるようになったのであります。
「運が悪い」と思う心が出てくるのは、結局、「自己責任の原則」というものが腑に落ちていないということなのだと思います。「悪い結果になったのは、環境や、相手の責任であって、自分には、あまり責任はない」・・・、どんなときでも、こういう考え方をする人がいるのですが、こうした考え方でいると、いつまでたっても「運が悪い」と嘆き続けなければならないでしょう。自分の責任だと受け止め、自分自身の心を改善していく気持ちが大切だと思います。そのためには、視点を変える必要があるのです。別の見方をする。そうすることで、「運が悪い」と思ったけれど、よくよく考えてみたら、実は「運が良かった」ということになるのであります。
そして、視点を変えることで、その後の己自身の行動自体も変わっていきます。無謀運転だった人が、反省して、安全運転に変わっていく。「運が悪い、運が悪い」と不平不満を口にするのではなくて、まず、自分が安全運転をすれば、つかまる回数も減ってゆくものです。その当たり前のことに気付くことです。そうすれば、本当に、すべてが変わってゆくだろう。心を変えたら、それが現実の生活にも影響を与え始めます。実際に人生が変わっていくものなのであります。これが、「あなたが変われば、あなた周囲の環境も変わっていく」ということなのです。周囲を変えようとする前に、自分の心の間違いを正すこと。そうすれば、周囲を責める気持ちが薄れるし、また、実際に、周囲が本当に良くなってゆくものなのです。
コメント (2 件) 大和 春道 - 2007年 4 月 16 日 ここから↓は、『日蓮の霊言』を読む その22 のコメントです。
大和 春道 2007年1月21日 10:44 古い曲です(^^;。なかなか詩がいいですよね。本当に癒されます。
さらん(‾???) 2007年1月19日 13:43 この椎名さんの曲・・・いいですね。 大和 春道 - 2007年 4 月 16 日 ここから↓は、『日蓮の霊言』を読む その25 のコメントです。
大和 春道 2007年1月26日 18:26
(名前なし) 2007年1月26日 10:32
さらん(‾???) 2007年1月24日 19:38 |
8.『日蓮の霊言』を読む⑧ :: 2007/02/18(Sun) |
20070218 00220 8.『日蓮の霊言』を読む⑧ 三章 正法、神理の流布について 大切なのは歪めることなく神意を取り次ぐこと 今回からは、第三章に入っていきます。テーマは「神理伝道」であります。では、さっそく「霊言」を見ていきましょう。 あなた方が団体を造っていくのではないのです。人びとが集まってくるのです。それを誤ってはいけない、あなた方が組織を造るのではないのです。あなた方はほっとくのです。法を広めるのであります。ただ結果的に人が集まってくるのです。人を集めんがために法を説くのであるなら、今の株式会社のようなものと変わりないではないですか、利益を与えてくれるから人が集まるのであるなら会社組織と変わらないではないですか、そうではないのです。”法”そのものを説けばよいのです。それが広がっていけばよいのです。広がる、広がらないはまかせておけばよいのです。本物であれば確かに広がっていきます。本物を目指すべきです、本物は人から人へと、人びとの良心から良心へと伝わっていきます。 (「日蓮の霊言」P112) ただ、あなた方は団体を造ろうと思ってはいけない。そういうことを思うと我が出、欲が出てきます。そうではなく、あなた方は真理を広めるのです。神理を広めればよいのです。宗団は出来ようが、出来まいがそんなことは問題ではありません。一人でも多くの人びとに神理が伝わればそれでよいではありませんか。宗団を造ろう、教団を造ろう、教祖となろう、このような考えは持たないことです。 (「日蓮の霊言」P114~P115) 法を説く使命をもって生まれた者は、法を降ろすことに専念せよ、ということ。神の御心を正確に取り次ぐこと、「法」を降ろすことが、何よりも大切なのです。組織作りなどに奔走し始めてしまうと、その最も大切な「法」が歪められてしまうことが多い。 組織を作ったり、維持したり、拡大していくためには、どうしてもお金が必要です。お金を得るために、色々とやらなければならなくなってくる。また、組織というものは、ピラミッド型になっていて、上下関係が生まれ、皆が上になりたいと思うようになります。こうして、お金、地位、名誉、名声、権力などに執着する者が、大勢現れてくるようになるものなのです。彼らの心は、野心やジェラシーの渦であります。やがて、そうした不調和な心に地獄霊たちが付け込んでくる。そして「魔の攪乱」が始まる。「○○には魔が入った」・・・・・・、こういうことを、お互いに言い始めるのです。そして、悪口を言い合った挙げ句の果てに、分裂していきます。分裂後も敵対して、お互い悪口を言い合い続ける・・・。ま、組織を作ると、たいてい、こういうことになってしまうのです。 このような不調和な波動の中で、一体どのようにして、正確に神の御心を取り次ぐことができるでしょうか? そういう時に、降りてくる神の言葉には、注意が必要です。なぜなら、それは、100%の「神意」ではなくて、教祖の「我意」が混入している可能性が高いから。つまり、人間心(※たとえば、ジェラシーや憎しみ)で誰かを批判してしまうと、教祖の人間性が疑われるので、「神のお告げ」だと称して、高級霊の言葉だとして、誰かを批判しているようなことが多いだ。 「○○に魔が入った。私が言ってるのではない。神がこのようにおっしゃっておられる!」、こういうことを厳かに言い出す。すると、教祖を盲信している人は、「○○に魔が入った」ということを、鵜呑みにして、事実だと思ってしまうのですね(^^;。そして、昨日まで、あれだけ仲良くしていたのに、「魔だ、魔だ」といって排斥し始めるようになってしまうのです。ひじょうに恐ろしいことであります。だから、「霊言」というものは、常に「審神(さにわ)」が必要なのです。誰かを「褒める言葉」と、誰かを「非難する言葉」には、特に注意する必要があります。 教祖が、その誰かを「仲間に引き込みたい!」という気持ちが強い時には、「霊言」に、教祖の「我意」が混じり込んで、その誰かを持ち上げるような内容になります。「やっと来てくれたね。○○さん、あなたを待っていたんだよ。もうあなたしかいないんだ」・・・・・・(^^;。こうした内容の「霊言」を聞かされると、誰でも、舞い上がってしまうのですね(^^;。粉骨砕身、教祖に協力しようと思う。ところが、実は、教祖の「我意」だった、なんて場合がケッコー多い。しばらくして、問題が発生してくると、高級霊があれほど持ち上げていたのに、今度は「○○には、魔が入った。最初からこうなることは危惧されていた」といった感じの「霊言」が降りてくる(^^;。ここで非常に大切なのは、「我意」が混入されているかいないかを「審神(さにわ)」することであります。教祖自身も、聞かされる側も、「審神」の精神を失ってはならない。 教祖自身も、よくよく反省しないと、己の「我意」が混入されて行くことが、分からないのですね。教祖自身が、本当に「霊言」だと思っていても、実は、教祖自身の願望が、知らず知らずのうちに、霊言の中に混ざり込んでいる場合があるのです。もっとひどくなると、「霊言」という形をかりて、教祖自身の願望を語る場合がある(^^;。もう、こうなってくると、救いようがありません(^^;。 まあ、こうした感じで、組織作りにかかわってしまうと、「法」を降ろすという本来の仕事ができなくなってしまうことが多い。たいていの場合、そうなって行く。だから、一宗一派を起こそうというような気持ちを捨てることだと思います。「己の生きた証を、世に知らしめたい!」とか、そうした心で宗教をやってはいけない。「神の言葉」を、歪めずに正確に取り次いでゆくこと。そして、己の名を広めるのではなく、「神の言葉」を一人でも多くの人に知ってもらうこと。こうした純粋な気持ちを忘れてはならないのであります。 しかして最後にはあなた方独自で新たな法を造成していかなければならないのです。私たちの言葉を伝えるということ、聞き書き―そのようなものだけではいけないのです。ただこれも、人びとに法が説かれるための方便なのです。これが最初の方便なのです。やがてあなた方が考え行動することが”法”となるのです。はじめは手引きがいります。手引書がいります。導きがいります。アドバイスがいります。そのために私たちは語っているのです。しかしやがてはあなた方が頭で、自らの頭で判断し、語り、行動したことが、またそのものが「法」として後世に残っていくことになるのです。 (「日蓮の霊言」P113~P114) 「救世の法」が降ろされる時は、天上界が総力を結集すると言います。その教祖の背後には、巨大な「指導霊団」が控えているということなのです。その「指導霊団」を構成している高級霊たちの中の一人が、もし、地上の人を指導すれば、そこそこ大きな宗教が生まれたり、運動が起こって来ます。救世主が地上に降りた時は、それぐらいの力のある高級霊たちが何人も集まって、チームを組んで、天上界から指導に当たるそうです。500名近い高級霊であります(^^;。非常にバラエティに富んだ集団であります。それらの方々が、「霊言」を送ってくるのですね。たとえば、老子の「霊言」と孔子の「霊言」を比べると、内容に大きな差がある。それぞれの「霊言」は素晴らしくても、全体として見たときに、整合性がなくなってしまうということなのです。 だから、「霊言」を垂れ流すだけでは、「救世の法」とはならないということなのです。「霊言」現象は、一つの方便。「あの世がある」という一つの手がかりであります。ただし、方便だからといって、珠玉の英知、神の火花の結晶である「霊言」を切り捨ててしまっていいということにはなりませんが・・・・・・。ともかく、そうしたバラエティ豊かな「霊言」を統合統一して、止揚する、昇華するということが必要だということなのです。たとえば、天之御中主之神の「運命の開拓」という神示集があるのですが、これ一冊だけでも、大きな宗教が起こすことが可能でしょう。しかし、「救世の法」という観点から考えた時、それだけの価値を秘めた一冊であったも、全体の中の一部にしか過ぎないということなのです。 すべてを統合して、昇華して、新しい時代の価値基準を打ち立てるためには、どうしても自分たちの言葉で表現していく必要があるということです。借り物の言葉では、魂に響かない。「霊言」を広めるだけではダメ。「霊言」を暗記するだけではダメ。それらを学び、己の心の中の坩堝で精製する必要がある。そして、すべてが渾然一体となって、自分自身の血肉となって、己自身の言葉として語れるようになってこそ、魂に響く本物の「救世の法」だということです。 あと、大切なのは、「言葉」だけではいけないということ。「行動」や「生きる様」そのものが「法」であるという考え方です。口先だけなら、何とでも言える。泥棒でも立派なことをいいます。しかし、行動の伴っていない言葉には、言霊が宿らない。人びとの胸を打ち振るわせるような言葉にはならない。まったく同じ言葉であっても、語る人によって、その言葉に込められている「光の量」が違うのですね。説教されても、白々しくって聞く気になれない時があります。でも、まったく同じ内容の説教でも、魂が打ちのめされてしまうこともある。それは、言葉に秘められた光の量の差なのであります。そうした、「光の言葉」を語る人というのは、「生きる様」そのものが「法」となっている人なのです。 「やがてあなた方が考え行動することが”法”となるのです(日蓮の霊言)」 、これは非常に大切な考え方だと思います。 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのようにあなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。 (マタイ5.14-16) 教えを体系化して、段階的に導くことが大切 善川 ここ四年間は、日蓮聖人が主体となって「正法」をお説きくださってきたのですが、これを今の世で同じく法を求める者に語り継ぎたいと思うのですが、その方法と申しましょうか、形態と申しましょうか、この聖人様のお言葉を、書物という表現形式によって表すことにことについては、お許し願えましょうか、重ねてお伺い申します。
(「日蓮の霊言」P117~P118) そしていかなるものを残していくかということは、いかなるものを残すことがそれに接する人たちにとって有難いか、その接する人たちにとって素晴らしいものになるかという観点から考えて、あなたはなすべきことをなしていきなさい。
(「日蓮の霊言」P119) 「救世の法」とは、どういうものなのだろうか? 人類の7割、8割というのは、要するに一般の人々であります。さして頭が良いわけでもなく、行動力があるわけでもない。そうした平凡な人々が、人類の7割、8割を占めている。この平凡な人々が理解できて、実践できて、幸せになれるような、そんな教えこそが「救世の法」ではないだろうか。このように考えれば、具体的にどういうふうな感じで「教え」を残していけば良いのか?、ということが見えてくると思うのです。 「霊言」をそのまま書物にするのも一つの考え方であります。理論書には、理論書の素晴らしさがあるのですが、魂が震えるような感動というものがありません。しかし、「霊言」は、救世の情熱のほとばしり、言霊(ことだま)の塊でありますから、魂に直撃してくるものがあるのです。だから、「方便だ、方便だ」といってバカにすることができない。素晴らしい「霊言」は、「神の火花の結晶」といっても良いのです。理論書を読んでも元気になりませんが、霊言を読むと、「光」のエネルギーが充電されるような感じがして、ものすごく元気が出てきます。 もちろん、「霊言」には、ピンからキリまであります。高級霊界から「霊言」もあれば、高級霊界からの「霊言」と称しているけれど、実際は地獄界からの「霊言」、という場合もあるでしょう。だから、まず、それを見極めて、高級霊からの「霊言」に学ぶことが大切であります。まがいものを本物だと間違って、それを人生の指針にすると大変なことになってしまうから、注意する必要があるのです。 また、段階的に導いていくことが大切。そのためには、教えを体系化する必要があります。たとえば、仏教などでは、「次第説法(しだいせっぽう)」というスタイルをとっています。初級・中級・上級といった感じで、教えに段階を設けている。これは、当然のことですね。義務教育などでも、同様のやりかたです。まず、基礎固めして、そして、応用段階へ。九九を知らない人に、いきなり、高校レベルの数学を教えても、理解してもらえるはずがない(^^;。このように、何事にも順序、段階があるということです。 「救世の法」の伝え方も、やはり、初級・中級・上級というような段階が必要だということなのです。初級とは、これを理解し、実践すれば、何とか、天国に戻ることができるというレベルの教えでしょうか。人類の7割、8割を占める一般人のための教えです。しかし、優秀な残りの2割、3割の人々がさらに進化していくための「高度な教え」も、やはり、必要なのであります。それが中級・上級。中級とは、「光の天使」に至るための教え。上級とは「如来の悟り」に至るための教え・・・・・・。ま、こういった感じに分類することができるでしょう。そして、初級の教えの中にも、三段階ぐらい設ける。中級も上級も同様にする。こうした感じで、細分化して、一段ずつ登っていけるようにするのが、人類全体に対する「思いやり」ではないかと思います。 あなたは、あなたの花を咲かせなさい 善川 私のような非力なものに、私一人でどれ程のことを人びとに訴えることができようかと思えば、前途にまだ自信が持てないのです。 今世紀末(※20世紀)から来世紀にかけて、人類は第二のルネッサンスを迎えることになりましょう。それは、東西の文化が交流し、新しい時代にふさわしい文化が建設されることになりましょう。
(「日蓮の霊言」P120~P121) 中世のヨーロッパでは、教会中心の時代が長く続き、人々は、いい加減、嫌になってきた(^^;。そして、「ギリシャ・ローマ時代の頃のような自由さを取り戻そう」という空気が出てきて、14世紀、イタリアでルネッサンスの運動が始まった。それが、百年、二百年後には、ヨーロッパ全土に広がっていった。政治、思想、哲学、芸術、文学、あらゆる分野においてです。宗教改革も、その流れの中にあったのです。 こうしたすべてを含むような巨大な運動というものは、一人の力では達成されないのですね。万能の天才・レオナルド・ダ・ビンチ一人が、しゃかりきになって頑張ったところで、10年や20年で、ヨーロッパ全体の流れを変えてしまうことはできないのです。色んな人たちが、あちらでも、こちらでも、新しいことをやり始めて、切磋琢磨して、そして、50年、100年という時を経て、大きなうねりとなってくるものなのであります。 キリスト教なども、イエス・キリスト一人の力ではないのです。当時ユダヤ人は、ローマ帝国に支配されていました。選民思想のユダヤ人にとっては、耐え難い屈辱です。だから、彼らは心の底からメシアを待ち望んでいた。「きっともうすぐメシアが現れて、ローマ兵どもを蹴散らしてくれるはずだ!」・・・・・・。こうした空気が色濃く漂っていたのです。そこへ、何百年も途絶えていた預言者が現れた。洗礼のヨハネです。人々は最初、このヨハネこそがメシアではないかと思った。しかし、ヨハネ曰く、「私の後から来る方は、私よりも優れておられる」。つまり、もうすぐ本当のキリストが現れるという予言です。 まあ、そういうふうにして、どんどん時代の雰囲気が濃密なものになっていたのです。そして、そこへイエス様が登場するのですね。洗礼のヨハネが道を切り開いていない時に、いきなり、「我はキリストである」と叫んでも、キチガイ扱いされるだけでしょう(^^;。ケッコー多くの人々がイエス様を受け入れたのは、時代の空気ができあがっていたからであります。 やはり、時代の雰囲気というのは重要です。色んな人々の力が集合して、積み重なって、そして、時代の空気が臨界点に達していく。5年や10年という短い時間で、世界全体のムードを変えてしまうことはできないのですね。100年200年という時間をかけて、空気が醸成されていきます。イエス様の処刑後も、パウロのような人が現れてきます。もし、パウロの活躍がなかったなら、キリスト教はこんなに広がっていなかったかも知れません。 ギリシャ哲学の時代も同様です。ギリシャの自由な空気の中で、色んな人々が、色んな哲学を論じていました。ああでもない、こうでもないと、切磋琢磨していたのです。そうした空気が、ソクラテスやプラトンを生み出していったと考えることもできるのです。 ギリシャ哲学の時代と同じ時期のインドや中国にも、そうした空気が醸成されていました。当時のインドには、カーストという身分制度があって、被差別者たちにとっては非常に厳しい時代であったそうです。しかし、やがて、そうした時代の閉塞感を打ち破るかのように、バラモンの伝統的な教えに囚われることのない自由思想家たちが、あちらにもこちらにも、どんどん現れてきたのです。お釈迦様もその中の一人だったのです。 孔子の時代も、孔子一人だけではなかった。諸子百家といって、色んな人々が、ありとあらゆる考えを考え出して、発表して、論争して、切磋琢磨していたのです。まさに百家争鳴の時代。そして、その諸子百家の中の一人が孔子であったと考えてよいのです。そういう時代の空気があって、切磋琢磨できたからこそ、孔子の才能が開花し、高められたのだと思うのです。 あるいは、明治維新なども同じです。坂本竜馬一人が頑張ってもダメたっだでしょう。各藩の色んな人材が、新しい時代を切り開くために、色んな場所で、色んな働きを、誰に命じられるわけでもなく、自分の意志で行っていった。それが、大きな時代のうねりとなって、世の中がひっくり返ってしまったのです。 「救世の法」が説かれる時も、同じこと。時代の空気が必要だと思うのです。一人の力で、時代を変えようとして、焦ってみても仕方がない。いろんな花が咲き乱れて、空気が醸成されてゆくもの。色んな教えがあっていいのです。そういう自由な空気が必要なのです。「この教えでなければ救われない」といったケチくさい考え方ではいけない。百家争鳴でいいのです。そうした中からひときわ大きな花が、一輪、二輪と開花してゆくものなのだ。切磋琢磨が必要なのですね。正しいものもあれば、間違ったものもある。そうした玉石混淆の状態の中で、「何が正しくて、何が間違っているのか」を、必死になって考える。こうした努力が「教え」のレベルを押し上げてゆくものなのです。共産主義国家のように、言論を統制してしまうと、切磋琢磨がなくなって、新しい発想が生まれなくなってしまうものなのです。 だから、「正法神理だけを残して、他の教えは抹殺してしまおう」などという考えは、小さすぎるのですね。そうではなくて、神の花園を彩る一輪の花でいいと思うのです。ナンバー・ワンになろうとして、小細工を弄するようなみっともない真似はしない。本物の内容を打ち出してゆけば、イヤでも目立ってくる。 また、他の「教え」に対する考え方ですが、およそ正しい「教え」であるならば、どの「教え」も、根本には「正法」の精神が流れているはず。だから、そうした「教え」ならば、神の花園を彩る花として、大歓迎しなければならない。自分たちの花が如何に素晴らしい花であったとしても、その一輪だけで、神の花園を美しく彩ることなど、出来るはずがない。色んな花があっていい。そうした自由な雰囲気の中で、切磋琢磨して、己を磨き、大輪の花を咲かせてゆくことが大切なのであります。 「この教え以外はダメ」などというのは、共産主義国家と同じ発想です。そんな排他的な「教え」で一本化して、新時代がやって来たとしても、そこは、自由のない、非常に窮屈な世界に違いないのです。そういうのは、まっぴらご免であります(^^;。 伝道の要諦は人格にあり さて、伝道の方法ですが、心配はいりません。一人の人間が三人、五人の人を知っているのです。百人が三百人になり、五百人になるのは、もし内容があるものであれば、アッという間です。伝道というのは、いつの時代にもそのような形をとってきたものです。まず身近なものに説かれて、それを聴いたものが、これこそ本物だと、思い至った時に、それを多くの人たちに広めていったのです。
(「日蓮の霊言」P122~P123) あなた方が真理に則した立派な人生を生き、立派な人柄を持ち、立派なことを語り、立派なことを書くのであれば、心ある人たちは、あなた方を信ずるでありましょう。その方がたは、あなた方を、決して非難したり責めたりしないはずです。むしろ、あなた方を尊敬したり、あなた方の教えを乞いにやってきます。 要は、あなた方の中身であり、人格です。 (「日蓮の霊言」P124~P125) 「現象」というのは、「霊道現象」のことで、要するに、科学では説明できない不思議な現象のことです。こうした不思議な「現象」を、実際に、人々に突きつければ、人々はギョッとする。たとえば、誰にも話したことのない秘密の話しを、相手が知っていたらびっくりします。霊能力があるのではないのか?やはり、霊界というのは存在するのか?神は実在するのか?・・・・・・、こうしたことを考えてしまうことでしょう。 ま、こうした不思議な「現象」を見せることは、神仏の使者であることを信じさせるための一種のパフォーマンスなのです。「あの世などあるものか」と思っていても、死んだおばあちゃんが霊言で、おばあちゃんと身内以外に誰も知らないようなことを語り始めたら、どんな唯物論者でも、信念が揺らぐはずです。「現象」というのは、こうした唯物論者や懐疑派の人々の目を覚まさせるための一つの方便なのです。だから、神様の実在や霊的世界の存在を信じている人には、あまり、重要なことではありません。「現象」を求めているような段階にある人は、まだまだ、信じていないということ。だから、「現象」という「現証」が欲しいのです。 しかし「現象」というのは、カンフル剤のようなもので、一時的な効果で終わってしまうものです。時間が経つと、感動が薄れていく。「あれは手品だったのではないか?何かトリックがあるのではないか?」、こうした思いに囚われてしまうのです。そして、一部の人々は、色んな角度から「現象」の検証をやり始めたりします。ま、これは科学の精神ですから間違っているとは思いません。ただ、そうした科学的な考え方が絶対的に正しいわけでもない。宗教的な人は、「神仏を試す」というような発想を嫌います。現代的に見れば、それは非科学的な考え方で、迷信の世界だということになります。しかし、宗教的な人の態度が、絶対的に間違っているわけでもない。神仏に敬意を払いながら、審神(さにわ)の精神を失わずにいることも可能なのです。 しかし、残念ながら、今の世の中は唯物論者が蔓延していますから、「現象」なども、最初から疑いの眼差しで見られることが多い。「そんなことは、あるはずがない!」という先入観を持っているのです。一見科学的な態度のようで、実は、先入観に支配されてしまっている。とにかく「あら探し」的な態度で検証をやり始める。「教え」を説く者が、いつまでもこうした人びとを相手にやっていては、「法を説く」という本来の仕事ができなくなってしまうのであります。論争には、良い面もあると思いますが、不毛な論争で終わることが多い。疑ってかかっている者を、説得することは、まず、出来ません。この世においては、「神様が存在することや、存在しないことを証明することは出来ない」仕組みになっているからです。 だから、そうした不毛な論争に巻き込まれないためには、あまり「現象」などはやらない方が良いのです。それは、もう高橋信次先生がやって下さったから、今の時代の者は、もうあまり「現象」には囚われないで、「教え」を実生活に活かすことに焦点を合わせるべきなのです。かつての「霊道現象」の検証や論争に明け暮れて、一生を送ることほど虚しい生き方はないと思います。そんなことよりも、「正法神理」を如何に実践するか、が、問題だと思うのです。 「教え」の実践こそが、魂を成長させ、立派な人格を築き上げてゆく。正法者は、その立派な人格の感化力によって、周囲の人々に良き影響を与えていくという方向で勝負するべきではないでしょうか。口先だけのお説教や議論では、誰の心も動かすことができない。己の中味が充実していてこそ、言葉に重みが出てくるものなのであります。相手を折伏させてやろうと思う前に、もう一度、謙虚に己を振り返ることです。「俺は本当に、人に説教できるほど立派な人間なのだろうか」と。そして、己を「立派な人間だ」と思ったら、「増上慢」の可能性が高い(^^;。己を「まだまだだ」と思った人は、説教をやめて、もっと中味を充実させていくことです。いずれによ、説教する人間になってはいけないということです(^^;。要は、人格であります。口先だけの流暢な説法ではないのです。 組織には細心の注意を払うこと 善川 しかし、私たちはすくなくとも志を一つにする同士というものがなければ、ことは運ばないと思いますが。 同士というのは必要でありましょう。ただ慎重に相手を選んでいきなさい。事を運ぶに、ひじょうに賢くありなさい。少しでも自己宣伝や、或いは我欲、そういったものが入ってくれば、間違った人たちを引き込んでしまうことになります。どうか純粋な気持を忘れないでください。
(「日蓮の霊言」P125~P126) 宗教で大切なのは、まず、人々を幸せに導くための教えを確立すること。善川先生が、「霊言」を編纂していた頃は、まだまだ、「教え」が体系化されていない時期だったのですね。そういう時期に、組織作りに着手してしまうと、いろいろと雑用が増えて、一番大切な「教え」の確立が出来なくなってしまう・・・・・・。だから、当面は、神理の学習団体として、各人が自己確立に専念して、組織化については、あまり考えるな、ということです。 やはり、「正法神理」を歪みなく伝えていくためには、核になる「教え」と、核になる「弟子」が、必要なのです。まず、教えの骨格を作り上げる期間、そして、その精神を本当に体得した弟子の養成期間が必要だということ。この期間を我慢できずに、「神のお告げが出た」と叫び回って、伝道を始めてしまうと、本当に良い「教え」を後世に残すことが出来なくなってしまう。だから、じっくり学んで、練り上げて、段階を踏みながら、徐々に前進していくことだということなのです。焦ってはいけない。焦ると、そこに魔が付け込んでくる。 悪魔と彼の友達の物語を覚えておられるだろうか。二人が通りを歩いていると、前方で一人の人物が体を前にかがめて、地面から何かを拾い、それをじっと見つめ、そしてそれをポケットに入れた。友達は悪魔に言った。「彼は何を拾い上げたんだろう?」。「彼は<真理>を拾ったのだ」と悪魔は言った。「それは君にとって非常に厄介なことになったね」と彼の友達は言った。「いや、少しも」と悪魔は応えた。「私は彼がそれを組織化するのを助けるつもりだ」。 (ジッドゥ・クリシュナムルティの 「星の教団解散宣言」より 大野純一訳) クリシュナムルティは、神智学協会の切り札的存在でしたが、「真理」に至るためには、導師や組織は不要だと確信して、己の団体である「星の教団」を解散してしまいました。上の言葉は、その解散宣言の中で語られた言葉です。昔から伝わる例え話なのか、クリシュナムルティが考えた例え話なのか、よく知りませんが、とにかく、非常に考えさせられる不気味な物語であります。宗教組織を作る時には、この言葉を絶対に忘れてはならないと思います。これが悪魔の発想だと思うのです。 これは、正しい宗教ならば、100%、悪魔の標的になるということです。だから、わずかなスキも見せられない。核になる人たちの自己確立が、いい加減なもので終わっていたならば、組織作りの段階で、悪魔に蹂躙されてしまうということなのです。実に、恐ろしいことです。「神のお告げ」だから、一刻も早く、全世界に広めたいという情熱的な気持ちはわかる。しかし、焦ってはならない。まず、自己確立から。まず、核の部分を固めることです。 まだ、核が十分に確立されてもいない時期に、組織化を急ぎ、伝道を煽る者がいるとしたら、その者はいったい何者なのか? また、逆に、早く大伝道を開始したいという気持ちを抑えて、「もっと自己確立してからだ」と、訴える者とは何者か? こうした不安的な時期に、組織化を押し進めようとする者が、本当の協力者なのかどうかを良く考えなければならない。また、「組織化を焦るな」と抑えにまわる者が、本当に足を引っ張ろうとしてやっているのかどうかを、よくよく考えねばならない。協力者に見える者が、実は悪魔で、道を塞ぎ、足を引っ張っているように見える者が、実は高級霊の導きを受けているという場合が、なきにしもあらずなのであります。もし、ここを間違えてしまったら、一巻の終わりだということです。 「自己確立が大切なのはわかる。しかし、そういう者に限って、いつまで経っても、人類のために立ち上がろうとしないじゃないか!」、こういうことを言って、伝道を煽る者がいます。まるで、自己確立など小さなことだと言わんばかりです。しかし、焦ってはならない。騙されてはいけない。人類のために立ち上がれ!というけれど、一体何をするというのだろうか?彼らのいう「人類のために」というのは、教団の活動のことなのですね(^^;。教祖の本を配ったり、嫌がる人を無理矢理に会員に引きずり込んだり、セミナーを開いてマインド・コントロールを強めたり、・・・・・・、こういうことなのですね(^^;。こういうことが彼らにとっての「実践」とやらであります。 しかし、そんなものは、人類のためでも何でもなくて、教団を維持するため「実践」なのであります。「人類のため」などという抽象的な言葉のオブラートで、教団への奉仕だということを眩ませているのです。そうした大仰なセリフを使うことで、「自分たちは人類に貢献している」と酔いしれているのです。でも、本当の「実践」とは、身近なところでするものであります。たとえば、和顔・愛語の「実践」です。こういうのが真の実践。教団の活動にうつつを抜かし、身近なところで、不調和を引き起こしていては、何にもならない。和顔・愛語などは、自己確立の最中であっても、充分、「実践」していくことができるのです。こういう身近なところでの「実践」こそが、結局、人類光明化に貢献しているのです。 教団のために人生のすべてをかけて、打ち込んでみても、肝心の教団が、悪魔教団にすり替わっていたならば、すべての実践が、人類暗黒化に貢献していたことになるのであります。そうした虚しい人生を送らないためには、やはり、自己確立をしっかりして、自分の意志で行動できるようになっておく必要があります。 伝道、伝道というけれど、中味のない人が、教祖の言葉を丸暗記して、ただ、オウムのように機械的に繰り返したところで、そんな上っ面の言葉で、神様の心を伝えることなんか絶対に出来ないと思う。なのに、そういうことを「やれ」と命令するということは、結局のところ、命令する側も何も分かっていないということなのです。命令する側も、それに従う人間も、組織の走狗です。己の中にしっかりとした考えのない人間。組織の偉い人の顔色を窺いながら動く、太鼓持ちです。「正法神理」を正しく伝えることなんかどうでもよくて、ただ、会員数の折れ線グラフが、右上がりかどうかだけが気になって仕方がない人間です。こんな数値人間を、組織の中枢に居座らせてしまうな組織に明るい未来はないのであります。 組織のための伝道ではない。会員を集めて、献金させて、教祖や取り巻き連中を贅沢させることが目的ではない。伝道のために組織があるということ。組織が、伝道の邪魔をするならば、そんな組織は潔く解散させてしまった方がよいのです。大切なのは「法」を残し、それを後世に伝えること。そうした「純粋な気持ち」が大切なのです。飯のタネのために、「法」で商売するなど、もってのほか。「法」は、教祖や職員の飯のタネではないのであります。 あるいは、組織の上に立って、「先生、先生」と呼ばれる快感を失いたくなくて、しがみついているような人間が多いのですね。オウム真理教の事件を見て、つくづく思いました。「教祖は、人類の王だから、新時代が来たとき、今の側近である自分は、世界統一政府の首脳陣クラスになれるだろう。だから、今、辞めたら、将来の素晴らしい地位を失うことになる」・・・。こんなアホなことを思って、しがみついている人もケッコー多いのではないかと思います。自分自身の心を振り返った時、恥ずかしいことですが、確かに自分の心の中にも、同様の野心があったのではないかと思います。 ま、そして、もっと上に登りたくて、卑劣なことをやり始めたり、上の者にジェラシーを感じ、真夜中、わら人形に五寸釘を打ち込んだり、そういう神理とは正反対のことをやり始めるのです。組織には、そうした恐ろしい面があるから、余程注意しなければならない。 木偶の坊となるな 日蓮がこう言ったからこうした、というのはできるだけ避けたいのです。根本的な精神論、規範論については、意見を申しましょう。けれどもあなた方の行動について、いちいち私が具体的な指針を出すことは、これは避けるに越したことはありません。これは三年以上前から、私がもう既に言っていることです。そうしないとあなた方は、木偶の坊、になってしまうのです。神代の時代の卜占によって、政事(まつりごと)を決めたような時代に還ってしまうのです。 (「日蓮の霊言」P126~P127) 霊道が開け、守護・指導霊と交流できるのは、非常に魅力的なことです。しかし、そこにも問題点がある。それは、何でもかんでも霊界からの指示を仰ぐ「木偶の坊」に堕落してしまう可能性がある点です。人間、主体性を失って、自分以外の何者かに、自分の進む道を決めてもらうようになってしまったら終わりです。それは、自分が生きているのではなくて、誰かに操られているだけ。宗教的な人には、ケッコーこういうテアイが多い。占い師や教祖に、己の人生を預けてしまったり、霊界の何者かの命令通りに動くようになってしまったり・・・・・・。こういうのは間違った「他力思想」です。 だから日蓮の「霊言」では、「細かいことは申しません」と釘を刺しているのですね。霊界からの指示待ち人間は、何かにつけて指示を仰ぐからです。どちらの車を買ったほうが良いでしょうか?とか、旅行は、沖縄と北海道、どちらにすべきでしょうか?とか、誰と結婚すればよいのでしょうか?とか、どこで宝くじを買えばよいでしょうか?とか・・・・・・(^^;。こんなくだらないことを、いちいち指導していたら、幾ら守護・指導霊でも、さびしくなってくるのですね。だから、「そんなことを聞いても答えません」ということ。当然のことだと思います。 ちなみに、宮沢賢治が「雨ニモマケズ」に「デクノボーと呼ばれたい」という感じのことを書き残したのは、「木偶の坊になりたい」、という意味ではないと思います。己を過度に主張して、人の頭を踏み付けて、上にのし上がっていくような生き方よりも、和光同塵の生き方を選びたいということです。そういう生き方をすれば、周囲の人の目には、あたかも「木偶の坊」のごとく映るのであります。しかし、そうした生き方こそが大乗仏教の菩薩の生き方なのであります。決して、「木偶の坊」になりたい、指示待ち人間になりたいという意味ではないのであります。 コメント (3 件) 大和 春道 - 2007年 4 月 22 日 ここから↓は、 『日蓮の霊言』を読む その28 のコメントです。 大和 春道 さらん(‾???) 大和 春道 - 2007年 4 月 22 日 ここから↓は、『日蓮の霊言』を読む その31 のコメントです。 大和 春道 さらん(‾???) 大和 春道 - 2007年 4 月 22 日 ここから↓は、 『日蓮の霊言』を読む その32 のコメントです。 大和 春道
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9.『日蓮の霊言』を読む⑨ :: 2007/03/02(Fri) |
20070302(20090301) 00361 9.『日蓮の霊言』を読む⑨
四章 宗教問題について(パート1)
焦らず着実に、静かに遠くまで
これは、お釈迦様とイエス様の生き方を比較すると、分かり易いのではないかなと思います。これは、真理伝道者にとって、永遠のテーマといえるかも知れません。近年では、谷口雅春先生と高橋信次先生の生き方を比較すると、同様のテーマが浮かび上がってくると思います。お釈迦様や谷口先生は、大悟されてから40年、50年と、うまずたゆまず「法」を説き続け、そして自分自身の魂修行も怠ることがありませんでした。その結果、膨大な量の「教え」が後世に伝えられることになったのです。彼らの残した教えは、真理をあらゆる角度から解き明かしたもので、非常に多彩、かつ、深遠なものでありました。我々凡夫では、一生を費やしても学び切ることが出来ないようなものです。しかし、やさしい段階の教えから深遠な哲学まで、無数の法門がありまして、どんな人にも、その人に最も適した入り口が、必ずどこかに用意されているのであります。
彼らの「教え」が、膨大な書物として残ったこと、これは後世の人々にとっては、非常に有り難いことでした。彼らの残した真理の書が、多くの人々の学びの材料となり、人生の指針となってきた。そして、今後も多くの人々を導いていくことでしょう。 なぜ、これだけの大きな仕事を残すことができたのかということを考えてみると、やはり、40年、50年という長期間、「法」一筋に精進してきたからであります。じゃ、なぜ、それほどの長期間に渡って精進できたのかというと、一つには、みだりに敵を造らなかったという点にあると思うのです。法敵というのは、嫌でも現れてくるものですが、対応の仕方一つで、最小限に抑えることができるのですね。
お釈迦様は、弟子たちに、他宗の人々との論争を禁じたそうです。当然、お釈迦様ご自身も、積極的に論争をすることはなかったと思います。議論、論争で、切磋琢磨して、成長していくという考えも素晴らしいのですが、それは、いかなる時であっても、「平常心」を保つことができる立派な人々の話なのですね(^^;。そういうレベルの人たちが、議論を戦わせるならば、大いに収穫があることでしょう。しかし、たいていは、論争のための論争であって、お互いの成長のための論争ではないのです。
論争を仕掛けるような人間は、相手を論破してやろうと思って仕掛けるものです。争いの想念に突き動かされているのですね。だから、仕掛けられた側が、そうした念をまともに受け止めてしまうと、心の調和が乱れてしまうものなのです。こうした心の乱れは、修行者にとっては、退転以外の何ものでもないのであります。だから、修行者たる者、論争している時間があるのならば、その時間を自己確立のために使うべきではないか?・・・・・・。
また、「法」を説く立場にある方々も同じことです。「法」を説く立場にあるような方々は、心が相当磨けているはずですから、論争をしても、おそらく、心が乱れるようなことはないでしょう。しかし、論争によって奪われた時間は二度と取り戻すことができないのであります。世の中には、あと少しのヒントで脱皮できそうな人が大勢いるはずです。彼らは、ヒントを求めているのです。「法」を待っているのです。その人たちのために使うべき時間を、論争に費やしてしまったのではないか?、ということ。論争にうつつを抜かしている暇があるのなら、まず、真剣に求めている彼らに、「法」を説くのが筋道ではないだろうか、ということであります。
ま、こういう考え方が、お釈迦様の考え方だったのだと思います。極力、論争しない、敵を造らない。論争は敵を造る。敵を造ってしまうと、心の調和が乱れ、また、貴重な時間も奪われてしまう。論争している人は、一見、華々しく活躍しているように見えるかもしれない。しかし、彼の修行は遅々として進まない。そして、やがて、敵との戦いに疲れ果て、力尽き、倒れてしまう。彼が論争している間に、黙々と修行を続ける者は、その分だけ着実に前進していく。静かに歩む者は、遠くまで進むことができる。30年、40年、50年とコツコツと積み重ねて行くことができる。結局それが己のためにもなり、世の中のためにもなる、自利利他の生き方ではないか。
一方、イエス様の伝道期間はわずか三年です。信次先生は七年です。イエス様の教えは、新約聖書の福音書に残されていますが、仏典などと比較すると、わずかな量であります。信次先生の残した本は十数冊です。谷口先生の数百冊と比較すると、これもまた僅かであります。「量より質」と申しますから、これだけの量でも充分、「救世の法」として通用するという考え方もあるでしょう。しかし、もし、イエス様や信次先生が50年間、「法」を説き続けていたら、きっと、もっともっとたくさんの素晴らしい「教え」が残されていたと思うのです。もっと、たくさんの言葉が残ったからといって、何か不都合なことでもあるでしょうか?・・・。まったく、ないのであります。やはり、もっとたくさんの言葉を残して欲しかったと、誰もが思っているのではないでしょうか。
なぜ、残せなかったのか。それは、伝道期間が短すぎたからです。どうして、伝道期間が短かったのか。イエス様の場合、敵を造り過ぎたのですね。最終的に、十字架にかけられることは、決まっていたとしても、その時期に関しては決まっていなかったと思うのです。やり方によっては、50年間とは言いませんが、20年や30年ぐらい法を説くことができたかもしれない。しかし、激しい性格のイエス様には、ことを荒立てず、穏やかに穏やかに活動することなどできなかったのですね。パリサイ人に対する批判の激越なさまは、尋常ではなかったと思います。日蓮聖人とどっこいどっこいです(^^;。神様を深く深く愛するがゆえに、神様の御心が那辺にあるのかを熟知しているがゆえに、パリサイ人たちの偽善的な生き方が、どうしても許せなかったのだと思います。
福音書を読めば分かるのですが、「ここまで言うか」と思うぐらい、激しい口調で、偽善者たちを弾劾しています。イエス様は、愛の人ですが、偽善者に対しては、容赦しなかった。神殿で、商売している人たちを見たときは、怒りで、切れてしまって、鞭で追っ払ったりしたこともあったようです。やさしいだけの人ではなかったのですね。弱者に対しては、どこまでもやさしいけれど、権力を笠に、威張り散らして、弱者を泣かせているような連中に対しては、どうしても我慢できなかったようです。ま、こうした性格が多くの敵を生みだしてしまったのです。ただの敵ではありません。イエス様の敵は、イエス様を殺そうと画策していたのです。これは、見方を変えれば、相手に殺意を抱かせるほど、イエス様の舌鋒が鋭かったということです。三年という伝道期間が、天上界の約束事だったのか、それとも、イエス様の激しい性格が災いして、三年になってしまったのか、これは、私には分かりません。
しかし、いくら何でも、伝道期間が三年というのは、あまりにも短かったのではないか? 残された「教え」は、福音書に記されたわずかな言葉だけ・・・・・・。それらの言葉は、英知そのもでありました。また、非常に格調が高く、非常に美しい言葉でありました。それだけに、残念に思えて仕方がありません。
高橋信次先生の場合は、48才で帰天する予定になっていたらしいです。伝道期間は、わずか7年ほどです。これも短すぎる。やはり、もっともっと長生きして、もっともっと教えを説いて欲しかったと思う。もっともっと本を残して欲しかった。今、2007年ですから、もし、生きておられたら、80才ぐらいです。だから、あと十年ぐらいは、法を説くことができたと思うのですね。我々も、直接、教えを聞くことができたかもしれないのです。そう思うと本当に残念です。
まあ、とにかく、長期に渡る活動と、短期間の活動とでは、残る「教え」の量と質がまったく違うのであります。しかし、だからといって短期間はダメかというと、これが、不思議なことですが、そういうわけではない。お釈迦様とイエス様、谷口先生と高橋先生、同じ真理を説いているにもかかわらず、非常に対照的な生き方だったと思います。しかし、総合的に見ると、どちらが、より偉大なのか、これは、もう分からないのですね(^^;。
イエス様や信次先生は、伝道期間は短かったけれども、その期間を桁外れの「情熱」で駆け抜けたのであります。この「情熱」が、人々の心を打ち振るわせるのであります。共鳴現象を引き起こすのであります。残された言葉は少ないかも知れない。その「教え」は、バラエティ豊かというには、ほど遠いかもしれない。しかし、それらの短所を補ってなお有り余るほどの桁外れの情熱があった。完全燃焼した。その壮絶な生き様が、「法」そのものとなっているのです。その生き方が、時代を超えて、人々の魂を揺さぶっているのです。情熱が伝染していく。イエス様からペトロやパウロへ、そして、ペトロやパウロから、また別の誰かに・・・・・・。このようにして、イエス様の情熱が、時代を超えて現在まで継承されて来ているのです。
だから、そういう意味では、日蓮聖人の生き方は、あれはあれで素晴らしいと思うのです。確かに、功罪はあると思います。日蓮聖人が排撃した念仏の教えや禅宗も、「法華経」と同じく、「正法」の流れの一つなのであります。つまり、日蓮聖人は、「正法」の仲間たちを排撃していたのですね。それは、悲しい出来事でありました。しかし、日蓮聖人の「真理」に対する情熱には、凄まじいものがある。この情熱は誰にも負けなかった。「法華経」こそ最高の真理だという確信が強ければ強いほど、他宗の欠点が大きく見えてくるものなのです。また、すべての人々に、「法華経」に帰依して欲しいという思いがどんどんと高じてくるものなのです。そういう気持ちが「他宗排撃」という形をとって表れてしまったのだと思うのです。
日蓮聖人は、「旧約の預言者」的な存在だっだということです。仏教は中道を旨としていますから、仏教的に見ると日蓮聖人は、ちょっと特異な存在です。しかし、もし日蓮聖人を、イスラエルの「旧約の預言者」だと考えたら、まったく違和感がないのですね。要するに、一神教の預言者の生き方を、日本の鎌倉時代にやってしまったということなのです。一神教では、「他宗排撃」は当たり前のことなのであります。キリスト教も、「愛しましょう」「許しましょう」とか、きれい事を言っていますが、実は一神教でして、キリスト教発展の歴史は、「他宗排撃」と裏表になっているのです。
こういう感じで、真理伝道は大別すると、お釈迦様タイプとイエス様タイプがあるということです。それぞれ、一長一短があるのです。どちらが良いとは決め付けられない。静かに長く続けて、多くの遺産を残すのか、情熱を燃やして、完全燃焼して、その生き方そのものを「法」として残すのか?、とちらかです。どちらも素晴らしいです。しかし、時代の要請というものがあるのですね。谷口雅春の時代、高橋信次の時代、といった感じで、それぞれの時代には、それぞれのテーマがあって、それに応じた伝道のやり方があるのです。
今、求められているのは新文明の原理となる「法」です。今後2000年、3000年通用するような新文明の価値基準を打ち立てなければならないのです。今後、「文証」の基準となっていく「法」が求められている。要するに、膨大な「仏典」にかわる巨大な「法」体系が求められているのです。だから、今の時代はお釈迦様タイプの伝道方法で行くべきだということです。みだりに敵を造らずに、静かに静かに遠くまで進むというやり方です。そして、「法」をある程度降ろして、体系化して、一段落したら、今度は情熱的に広めていく段階が来る。それまでは、焦ってはならないのですね。基礎を固めるまでは、静かに静かに深く深くです。ここをキッチリやらずに、勢いにまかせて打って出てしまうと、取り返しのつかないようなことになってしまう場合があるのです。
個人的な意見ですが、「幸福の科学」は、この基礎固めの段階を軽く見すぎたのではないかと思います。ここがきっちりできていなかった。中途半端な学びで、「慢心」してしまった。また、一刻も早く広めたい、世の中に打って出たいという「焦り」の心があった。あと、大川先生には、高級霊に対するジェラシーがあったのではないかと感じます。こうした、「慢心」とか、「焦り」とか、「嫉妬」などで、足下をすくわれたのではないかと思うのです。1986年に発足して、1990年に大伝道を開始しました。わずか三年や四年で、核になる人材を育成することができるはずがないのですね。「悟り」とは、そんなインスタントなものではないはずです。要するに、まだまだ悟っていない人たちが、悟ったと慢心して、説教を垂れていたということです。
「教祖は九次元だから絶対に間違わない」などと、彼らは信じ込んでいました。このことを見ただけでも、盲信・狂信の世界になっていたことがわかります。こうしたレベルの教団が、大伝道を開始してしまったら、結果は目に見えているのです。ただ、もし、当初降ろされていた「法」がそのままの形で残っていたならば、いつか目が覚めた時、もう一度原点の「教え」に戻って、やり直すことも可能だった。しかし、残念なことに、自分たちを改めるどころか、「法」を改めてしまった(^^;。霊言集は絶版に、根本経典「正心法語」の内容が差し換えられ、基本三部作は改訂版に・・・・・・。これでは、原点に戻ることができないのですね(^^;。原点が、いじられてしまっているのですから、もうどうしようもないです。
またまた、大幅に脱線してしまいました(^^;。
後継団体について
「日蓮の霊言」が収録されていたのは1980年代前半です。この時期、天上界の日蓮聖人は、地上の日蓮宗を、どのような目で見ていたのでしょうか?日蓮聖人の「霊言」を抜粋しておきます。
まあ、こういうものだと思います。己の後継団体だからといって特別視しない。要は、その団体の一人一人が「正法」を学び、実践しているかどうかであります。そうであるならば、光の指導霊の霊的指導を受けることができるだろう。そうでないのならば、いくら、立派な名前を冠した組織に属する人であっても、天上界からの指導を受けることはできないということです。全く当然のことです。
(「日蓮の霊言」P137~P138)
正法に則った政治が実現されるかどうかということは、私たちは関心があります。(日蓮の霊言)
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10.『日蓮の霊言』を読む⑩ :: 2007/03/02(Fri) |
20070302 00221 10.『日蓮の霊言』を読む⑩
四章 宗教問題について(パート2)
伝道を”だし”にして己を誇示してはならない
「神理伝道」の盲点の一つに「自己吹聴」、「自己宣伝」というのがあります。私たちは、神理伝道を、無条件に正しいことだと思い込みがちであります。しかし、そうではない。色々と学び、色々と実践しているうちに、いつしか私たちは慢心してしまうのです。
こうした気持ちには、どこか思い上がりがある。伝道は、純粋な気持ち大切です。ところが、「慢心」が芽生えてくると、いつの間にか、「伝道」という形をかりた「自己吹聴」、「自己宣伝」にすり替わってしまうものなのです。
ただ「法を伝える」という純粋な気持に、いつの間にか、こうした「自己吹聴」の気持ちが混入してくるのであります。これは非常に微妙な”スリカエ”です。「法を伝える」というような正しいこと、立派なことをやっているわけですから、「自分は正しい」という思い込みがあるのですね。しかし、「法を伝える」という行為は正しくても、心の中に不純な気持ちが出てきたら、本当の伝道とは呼べなくなってくるのです。
己の膨大な知識を誇示したいという自己顕示欲を満たすための「伝道」・・・・・・、この法を伝えることができる者は選ばれし者だけ、今、この法を伝えている俺は、要するに選ばれし者だということだ・・・・・・、こういうのが、不純な気持ちです。己を反省してみて、もし、こうした気持ち、一点でもあるのなら、即、伝道を中止したほうがよい。
実際に、「選ばれし者」であったとしても、わずかでも、それを誇示するような気持ちが出てくると、必ず、「魔」が付け込んでくるからです。「選ばれし者」ほど、「魔」の攻撃も苛烈を極めるのです。針の穴のようなミスを見逃さない。非常に巧妙な手口で付け込んでくる。恐るべき悪知恵であります。特に「慢心」が恐い。「俺は絶対に正しい」、「俺は選ばれし者」、こうした気持ちが一点でも出てくると、確実に、その部分に「魔」が張り付いていると考えたほうが良い。もし、「俺は正しい、俺は選ばれた者」という「慢心」を反省することができなかったら、100%曲がっていくことになるでしょう。
前に説明しましたが、偉大な人ほど、大きな悪魔を呼び込んでしまいます。だから、曲がった時は、偉大な人ほど、深い地獄に引きずり込まれてしまうのです。その恐ろしさを忘れてはならないと思います。神理の道は、山の頂上を目指す道です。五合目、六合目なら、それほどの危険はないでしょう。しかし、八合目、九合目になってくると、非常に危険が大きくなってきます。一瞬の気の緩みが大きな事故につながっていきます。そして、高い場所であるが故に、転落のダメージも大きなものとなるのです。七合目、八合目を目指すつもりならば、生半可な気持ちで神理の山を登ろうとしてはならない。決して慢心してはならないと思います。
驕り高ぶらず、焦らずに、足場を固めながら一歩ずつ登ることです。「正法」の生活は、50メートル走ではないのですね。マラソンであります。より遠くを目指すならば、50メートルを駆け抜けるような全力疾走は禁物です。じっくりと腰を据える。うまずたゆまずであります。「何をぼんやりしてるのか!」と煽られても、焦らないほうがいいのです(^^;。焦って、闇雲に走り出しても、滑って転んで大怪我するだけです。
さて、「万教帰一」理論とは、「すべての宗教は、唯一の神から流れ出た教えである」という考え方です。たとえば、光は無色透明ですが、プリズムを通過すると、七色に分光します。「赤と紫は、違う色だから、これは別のものだ」と、どうしても思ってしまう。でも、元をたどれば、もともとは一つのものだから同じものだと考えてもいいのですね。あるいは神理はデコレーション・ケーキのようなものかも知れない(^^;。丸ごといっぺんに食べることができない。八分割ぐらいにして、一つずつ食べる。イチゴの乗っている奴、チョコレートの乗っている奴、色々に分かれます。分割されたケーキは、別々のようですが、でも、もともとは一つのケーキだから、同じものだということもできる。
世界には色んな宗教があるけれど、それらは、「神の教え」の一片である。もともとは同じものなんだから、どうして殺し合わなければならないのか?、ということであります。宗教間の争いほど醜いのもはありません。たいていの宗教の教えの中には「愛し合いなさい、許し合いなさい」という教えが入っています。ところが、どちらもそうした立派な教えを説きながら、なぜか対立して、あげくの果てに、戦争をしている。実に醜い。こうなってくると立派な教えも、単なるきれい事に過ぎないのです。教えを説くならば、それをまっ先に実践しなければならないのは、教えを説いた者です。ところが、宗教家は、立派な事をのたまうだけで、自分自身は、まったくその教え通りに生きていないことが多い。だからバカにされる。もう、見透かされているのですね(^^;。
もうそろそろ、各宗教の指導者は、「正法」を真剣に学び、「万教帰一」の真理に目覚め、仲良くしなければならないのではないか。「正法」に照らして、己の宗教におかしな点があるのなら、じっくり考えてみることです。つまらないことにこだわったつまらないドグマ(教義)に、いつまでもいつまでもしがみついているから、争いが絶えない。イエス様だけが「神の子」で、他の教祖は全部、偽メシア、偽預言者だと決め付けてしまうから、どうしても対立してしまう。イエス様だけが正しいと考えるのは、どう考えても不自然です。お釈迦様も正しい、孔子も正しい。しかし、イエス様も、お釈迦様も、孔子も、100%ではない。老子のような考え方もまた素晴らしいのですね。老子は、ある面においては、イエス様やお釈迦様以上の境地に達していると思います。
だから、根本精神が一致しているのなら、枝葉末節の違いは、それぞれの個性として尊重して、みんな仲良くするべきだと思うのです。どちらが上だとか下だとか、そういうことにあまり囚われないことです。「この教えでなければ救われない」、こんなつまらないことは、もう言わないことです。「万教帰一」的な考え方のできない教祖さんからは、一刻も早く離れたほうが良いです。必ず、おかしなことになっていきます。いくら教えが立派でも、争い事ばかり起こしているような宗教では、世界平和に貢献できないのです(^^;。その宗教に、全人類が入信したら、世界平和が来るのかも知れませんが、そんなことは、まずあり得ない。やはり、色んな宗教が、冷静になって、くだらない教義を捨て去って、大同団結していくことが大事だと思います。
小学生レベルの「教え」は、レベルが低い。じゃ、そんなものは必要ないのか?、というと、そうではない。中学生レベルに達した人には、もう不要でも、これから学びはじめる人たちにとっては、入り口となる貴重な「教え」なのです。小学校も、中学も、高校も、それぞれ必要であって、争う必要などどこにもないのであります。宗教指導者は猛省して、今後は、こうした認識に立って、もっと謙虚になって、もっと色んな「教え」を研究して、そして、「万教帰一」に目覚めていただきたいと思います。また、宗教を学ぶ人は、師をじっくり見定めることです。「神意が降ろされるのは、ここだけだ!」といったことばかり叫んでいるような排他的な教祖さんには、決して近寄らないことです。
光一元論の問題点について
日蓮の霊言では、「光一元論」の問題点として、「論理が飛躍し過ぎるという点」を指摘しています。 「何が善で、何が悪か、これを知る。そして、悪を捨て、善を行う。また、己の心を反省して、心を浄化する」、 これが、八割の人が理解できる基礎の部分です。まず、これを卒業することです。しかし、実は、この簡単な「教え」を卒業するのが難しいのです。そう簡単に卒業できるものではないのです。だから、現実問題としては、こうした基礎的な修行に励みながら、謙虚な気持で、難しい理論も学んでいくべきでしょう。基礎の部分をやり続けている限り、それが重石となって、頭でっかちになることはないのです。 善川 今、私が、思想上の問題で、とっかかり、躓いている問題は、天上界のあなた方や、釈尊、或いは高橋先生の説かれている「八正道」を基軸とする中道の精神を持ち、他力に頼らず、自力による自己修行の道と、一方、自他力によらず、”光”一元の世界へ一躍跳入するという「生長の家」の絶対力の教えとの、いずれをとるべきかということであります。 (「日蓮の霊言」P144) 谷口雅春先生の説かれた「光明思想」は、膨大な思想体系であります。この思想は、「縦の真理」と「横の真理」が、十字に組まれているのです。そして「横の真理」に関しては、確かに「効果」というものを考えた、いわゆる「思想」であります。しかし、「縦の真理」に関しては、人間知で造り上げた「思想」などではないと、私は思っています。だから、この部分に関しては、個人的に考え方が違います。ま、実際は、日蓮聖人も、「光明思想」の本質を理解しているのですが、段階的な「導き」ということで、あえて、こういった表現をとっていると思います。それは、次の「第5章」を読むと分かることであります。 とりあえず、「基礎からの神理」レベルでは、「光一元論」は必要ないでしょう。上級コースの「教え」に、そういう難しい「教え」があると知っておくだけでよいと思います。今は、「日蓮の霊言」に学ぶことです。まず、こうした基礎固めが大切です。こうした段階を経て、やがて、上級コースの「教え」に入っていくのです。ここを飛ばすと、上級の「教え」に入っても、結局、真の意味で理解することはできないのです。 確かに、熱が無いから寒さが有る、という考えもあります。熱有り、寒さ有り、という考えがある一方、熱のみ有り、寒さ無し、寒さは、熱の欠如した状態であるという考えもあるはずです。けれども、現に、見なさい。灼熱の光があれば、”氷”というものも、あるじゃないんですか、雪というものも、あるんじゃないですか、「雪」は、熱は有りません。しかし、雪は、雪としてあります。単に無いもの、あるべきものが、無い、というだけでは、説明になりません。熱が無いだけで氷、或いは、雪が出来るという説明はできません。そうではありませんか、闇は、光が無いというだけの説明で済むかどうか。これは一つの「考え」であります。確かに、光が無いという状態は真実であります。しかし、それは、本来、闇が無いということの説明になるかどうか、同じ論法からいうならば――。 (「日蓮の霊言」P145~P149)
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大地を枕に-元気ですか? 僕は元気です。- |
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Author:大和春道 |
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