57.正法と霊能力 その2 :: 2009/01/11(Sun) |
20090111 00352 57.正法と霊能力 その2
正法には、三つの証明、つなわち「文証・理証・現証(もんしょう・りしょう・げんしょう)」の三証(さんしょう)がともなうものである。三証具足が、正法の条件なのであります。
「文証」とは、「経文に証拠を求めること」。
「理証」とは、「真理であることを道理・理論によって証明すること」。
こういう説明の仕方では正法とは言えない(^^;。
正法の教えは、その時代に解明されている科学的真理と矛盾しない形で説かれるモノなのであります。現代人を納得させるためには、整合性というものが、必要不可欠だからです。科学的にも納得できる教えを、筋道立てて、論理的に説く必要があるのです。
ただし、地上界の科学は、唯物論に呪縛されていて、最終的な真理を発見することが、どうしてもできません。だから最後の一厘の部分は、信仰の世界であるということを忘れてはならない、・・・・・・とは言え、ギリギリの部分まで、できるだけ論理的に、科学的に説明する。これもまた”光の天使”たちの大いなる愛といえるでしょう。
さて、「理証」に関して注意しなければならない点があります。 ”光の天使”たちが、整合性のある教えを、諄々と説くのは、人々を最後の一厘である信仰の世界に導くためであります。
しかし、こういうのを曲学阿世の徒というのだ。権威や時勢・時流にへつらい、真理を曲げてでも、評価されたいという気持ちを秘めた連中だ。
そして、霊能力や奇蹟現象を否定し去り、現実に奇蹟現象を目の当たりにしても、すべてトリックだと決め付けてしまうのだ。挙げ句の果てに、「神などというものは、人間の想像の産物に過ぎない」などと言い始める・・・・・・。
仏教者の一部が、無神論者、唯物論者に陥っているのは、そういうワケなのだ。彼らは、合理的であることに引っかかって、どうしても、最後の一厘を飛び越えて、信仰の世界に入ることができないのだ。
「正法に不思議なし」という言葉は、
もちろん正法では、不思議現象に魅せられて、迷路に迷い込むことを強く戒めている。けれども、不思議現象を否定しているわけではないのであります。”光の天使”たちが引き起こす正しい心霊現象は、神仏や霊界の存在を実証するための一つの方便として、むしろ認めている。このことを忘れて、宗教を唯物論的な道徳論に堕落させてしまってはならないのであります。
仏教者の一部は、「原始仏典こそが釈迦の教えで、大乗仏典は仏教とは言えない」という。原始仏典は、現実的で合理的な教えで、現代でも通用する。でも大乗仏典は、後世の学問僧たちが捏造した摩訶不思議な世界観である。「正法に不思議なし」であるから、大乗仏典などはニセモノて、原始仏典こそが真の仏教なのである・・・・・・、というワケだ。
しかし、そうではないのだ。
つまりこういうことだ。
「正法」の時代には、正しい”教え”があって、それを実践する”修行者”がいて、その実践を通して”悟り”に至る者たちが数多く出てくる。
「現証」というのは、神仏の使者であることを証明する”霊能力・法力”を意味する場合もあるし、このように、”悟り”という結果そのものが「現証」だと考えることもできるのです。
まあ、とにかく、「正法」の時代というのは、その”教え”によって、”悟り”を得たり、正しい”霊能力”を実際に得ることができる時代であります。
ところが、高級霊界から降ろされた正しい”教え”も、時代の流れの中で、地上の人々の勝手な都合で微妙に歪められて行きます。やがて、”教え”が形骸化してしまうのであります。 そうした時代であっても、真理を求め、”悟り”を求め、ユートピアを求めて、”教え”を学び実践する人々がいるのですが、歪められた”教え”では、”悟り”や”霊能力”といった「現証」を手に入れることはできません。
「像法」とは、「正法によく似た教え」という意味で、「像法」の時代とは、歪められた”教え”があって、それを実践する”修行者”がいるのだが、「現証」、すなわち現実の”証し”が現われてこない時代なのです。
さらに時が流れると、正しかった”教え”も、完全に形骸化してしまって、経典として残ってはいるものの、それを実践して”悟り”を求めようとする”修行者”さえいない不毛の時代がやってくる。当然、そうした時代には、「現証」などは望むべくもありません。
つまり、「正法」の時代を過ぎると、「現証」が得られらないから、”修行者”たちは、宇宙即我の”悟り”とか、”霊能力”の存在が信じられなくなってしまうのです。経典に書いているけど、眉唾だと思うようになる(^^;。
こういうことはいつの時代にもあることです。現代において大いに発達している科学なども、神仏や霊界というのは、科学的に調べることはできないから切り捨てている。ほとんどの科学は、唯物論という土台の上に築かれたもの。
ホンモノの科学者は、神仏を肯定しないまでも、否定することはないだろう。でもエセ科学者たちは、現代の科学が唯物論という一面的なモノで成り立っている不完全なものだということを理解できないから、科学万能主義におちいり、科学で証明できないものを、すべて否定し、存在しないものとして切り捨ててしまうのだ。
本当の科学というものは、神仏や霊界の存在を合理的に証明しようという精神が根本になければならないと思う。本来の学問の目的はそこにあったはずなのだ。単に、興味本位とか、利便性の追求のためとか、そうした理由で発展していく科学は、末法の時代の間違った科学であるということを知らなければならないと思います。科学が発達した挙げ句、核エネルギーで地球が死の星なってしまいました、なんてことだけは勘弁してほしいです。
そして「現証」。 日蓮聖人の言葉に、「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、また道理証文よりも現証にはすぎず」(「三三蔵祈雨事」)とあります。 現実の”証し”こそが最も重要なのだ。この「現証」こそが、”光の天使”であることを証明し、その”教え”の正しさを証明して、「正法」の時代の到来を”証し”するものなのだということです。
「理証」なんてものは、いわば後付けの屁理屈に過ぎない(^^;。
しかし、「現証」は、現実の”証し”だ。実際に”悟り”を得、実際に”霊能力”があり、その力によって、実際に人々を正しい道に導いている。これが一番説得力があるのだ。この「現証」があってこそ、「文証」と「理証」が生きてくるのであります。
奇蹟現象を極端に否定したり、心霊現象を「幻覚だから価値がない」と強調する人は、本当の正法を知らないということです。
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大地を枕に-元気ですか? 僕は元気です。- |
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Author:大和春道 |
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