6.ラ・ピュセル(乙女)のこと その1 :: 2006/02/06(Mon) |
20060206 00070 6.ラ・ピュセル(乙女)のこと その1
ジャンヌ・ダルク(1412-1431) 通称ラ・ピュセル。フランスの愛国者。ドンレミ村の農家の娘。 救国の神託を受けたと信じ、シャルル七世に上申していれられ、 イギリス軍を破ってオルレアンの包囲を解いた。 のち、イギリス軍に捕らえられ、 ルーアンで異端として火刑に処せられたが、 一九二〇年にローマ教皇庁により聖女に列せられた。 オルレアンの乙女。(大辞泉より)
快進撃
ジャンヌ・ダルクが、歴史の舞台に登場したのは、1429年(※ジャンヌ17歳)のこと。その頃、英仏百年戦争は、最終局面を迎えていた。フランスは滅亡の危機に瀕していたのだ。
フランスには、当時こうした予言があって、人々の間では、前半の「ひとりの女」とは、イザボー王妃だと考えられていた。つまり、予言の前半部は既に成就してしまったが・・・・・・。「ならば、後半部も成就するはずだ」、こうした期待が、疲弊しきっていた人々の心のどこかに残されていたのだと思います。
イギリス軍に包囲されているオルレアンが陥落してしまったら、もう後がない。フランスはギリギリのところまで追い詰められていた。ジャンヌ・ダルクが、オルレアン入りした時とは、まさにそうした逼迫した状況下にあった。兵士たちも市民も歓喜の声をあげてジャンヌを迎えたそうだ。予言の処女かもしれないジャンヌ・ダルクが、王太子シャルルの命によって、オルレアンに向かっているという情報が、すでにオルレアンの人々にも伝わっていたのだ。そして、それからわずか十日間ぐらいで、オルレアンは解放されたのだ(※1429年5月)。まさに奇跡であった・・・・・・。彼女の出現が、オルレアンを救い、フランスを救ったのだ。
その後すべての人々が、ジャンヌを見捨てた時も、オルレアンの人々だけは、ジャンヌの恩を忘れなかった。ジャンヌが異端者として処刑され、行き場を失ってしまったジャンヌの肉親を、あたたかく迎えたのもこの町であった。この町では、解放の記念祝典が、現在に至るまでの500年以上もの間、毎年(※5月8日)行われているそうである。
そして1429年7月、ランスの大聖堂で、シャルル7世の戴冠式がとり行われた。このランスの町で、戴冠式をあげた者だけが、正式なフランス国王として認められることになっていた。しかし、シャルル自身は、ランスでの戴冠式に消極的だった。なぜならランスにたどり着くまでには敵軍が支配する地域を突破して行かなければならないからだ。そうした現実的なシャルル7世を粘り強く説得して、ランス行きを決定させたのがジャンヌであった。
しかし、この時以降、歯車が少しずつ狂い始めていった。正式にフランス国王となったシャルル7世が、ジャンヌ・ダルクを疎ましく思うようになったのだ。シャルルの重臣たちも、もともとジャンヌ・ダルクを疎ましく思っていたから、当然のごとくジャンヌは孤立化して行くのだった。
そして、1430年5月、コンピエーニュの戦いで、とうとうジャンヌは捕らわれの身となる。以降1431年5月30日の処刑の時まで一年間、牢獄の生活をおくる。最後の六ヶ月間は、「歴史上、類を見ない厳しい受難」の日々であった。それはイエスキリストの受難とどっちがどっちというぐらいに過酷なものであった。
ジャンヌが歴史の大舞台に登場してから火刑台の時まで、わずか2年。そのうち半分の一年間は、捕囚としての獄中生活、そして最後の六ヶ月は、腹黒い連中を相手にして、一人ぼっちで闘い抜いた苛烈な宗教裁判の日々だったのです。
僕は、フランスを救ったジャンヌ・ダルクを単純に「すごいな」と思う。でも、最後の六ヶ月を耐え抜いたジャンヌ・ダルクには、「すごいな」という言葉では到底言い表すことができないぐらい深く深く感動している。
受難の日々
ジャンヌに関しては、二つの重要な公式記録が残されている。それは処刑裁判と復権裁判の記録である。処刑裁判の記録は、ジャンヌの言葉がそのまま残されている(※改竄されている可能性もあるが・・・・・・)。復権裁判の記録は、生前のジャンヌを知る人々の証言。皮肉な結果ではあるが、ジャンヌ・ダルクの人間性を知るためには、この二つの裁判記録が、もっともよい資料だといわれている。
これらの資料が、世の中に広く知られるようになったのは、1800年代なかば、歴史家のジュール・キシュラが、膨大な時間をかけて資料を整理して本にまとめてからだそうです。つまり、それまでは、世の中の人々にとってジャンヌ・ダルクは、非常に解りにくい存在であったということ。
しかし、裁判の資料集が出てからは、ジャンヌの研究が飛躍的に進むことになり、ジャンヌの受難の過酷さが明らかになってきて、そうした苦難の道のりの中でも、信仰と愛の心を決して失わなかった偉大な魂の真価が、ようやく、人々の間にも理解され始めてきたということなのです。
さて、ジャンヌの第一の敵は、イギリス軍でありました。シャルル7世に冷遇され始めていたとはいえ、イギリス軍にとっては、ジャンヌは、恐るべき存在であり、憎むべき魔女でありました。オルレアンでのありえない敗退は、彼らには強烈なトラウマとなっていたのです。
ジャンヌにとって第二の恐るべき敵は、教会でありました。フランスの教会を牛耳るパリ大学ソルボンヌ神学部は、ジャンヌに異端の疑いありとして、宗教裁判にかけるために、ジャンヌを捕虜にしていたブルゴーニュ派に対して、彼女の身柄の引渡しを要求していたのです。
パリ大学の本音は、神のメッセージを受け、教会を通さずに王太子シャルルに取り入ったジャンヌが許せなかったのだと思われます。神と人との間を取り持つ存在、それが教会の存在意義なのだから、ジャンヌのように直接神の声を聞くことの出来る存在というのは、ハッキリ言ってしまえば「商売がたき」だということです。非常にセコイ考え方です。イエスの受難も同じ理由からでした。こうした構図は、過去だけのことではなく、現代においても、そこかしこで再現されています。
処刑裁判では、親イギリスのブルゴーニュ派の司教であるピエール・コーションという人物が、実質的に取り仕切りました。ジャンヌ・ダルクを火刑台におくったのは、このピエール・コーションという奸智に長けた腹黒い司教だったのです。
イギリス軍とカトリック教会の二大勢力がタッグを組んで、独りぼっちのラ・ピュセルを、宗教的にも政治的にも、そして肉体や魂までも抹殺しようとしたのでした。ジャンヌを異端者として裁きたいパリ大学と、ジャンヌを地上から抹殺してしまいたいイギリス軍の利害が一致したのです。そしてその間を取り持ったのがピエール・コーションです。
異端裁判によって、ジャンヌが異端者であることが決定すれば、魔女であるジャンヌの助けをかりて国王となったシャルル7世の権威が失墜する。これがイギリス軍とブルゴーニュ派の狙いです。
コーションが描いたシナリオは、おそらく次のようなものだろうと考えられます。 単に異端の判決を下し、火刑に処するのは、おそらく簡単だったと思います。ジャンヌには弁護士すらつけられることがなかったのですから。しかも無学文盲で、弱冠19才のうら若き乙女である。かたや教会側はコーションの息のかかったメンバーばかり。ジャンヌの死刑は、最初から確定していたようなもの。
ただ、イギリス側にも教会側にも満足の行く形で、すべてを終わらせるためには、邪悪な陰謀を張り巡らせる必要があったのであります。
まず、教会側が一方的に異端だと決め付け、処刑してしまうのではなくて、ジャンヌ・ダルク自身に異端の罪を認めさせること。そして、改悛させ異端思想を捨てさせること。その後、ジャンヌにもう一度罪を犯させ、「戻り異端」として容赦なく処刑する。
これが、おそらく唯一、イギリス側も教会側も納得の行くシナリオだったおもわれるのです。もしジャンヌが異端を認めないのに、教会側が一方的に断定して、一部の人々に「聖女」だと考えられているジャンヌを処刑してしまったらどうなるだろうか?後々厄介なことになるだろう。
「聖女だったラ・ピュセルが、無実の罪で処刑されてしまった」ということで、民衆の同情が集まり、ジャンヌ人気に、さらに火をつけてしまうことになりかねない、ということです。
イギリス軍にとっても、ジャンヌという小娘が、自他ともに認める魔女であることを証明して欲しいという政治的な思惑があった。もし、ジャンヌが真に神の使者であった場合、イギリス軍は、神に弓を引いていることになるのだから。ゆえに、イギリス軍、教会の両陣営にとって、ジャンヌの自白は絶対必要なのだった。
さて、では、自白した後どうするか?イギリス軍としては、即処刑でオーケーだろう。しかし、教会側は、そういうわけには行かない。いかなる罪人であろうとも、悔い改めさせるのが教会の使命ではないか(実際はジャンヌを憎んでいて殺したかったのだが・・・)?では、もしジャンヌが異端を認めた後、改悛した場合、どうなるのか?その場合、死一等を減ぜられることになるそうです。しかし、それではイギリス軍は、絶対に納得しない。ジャンヌを処刑するために、裁判の費用はイギリスが出しているのだ!
そこでコーションは考えた。「戻り異端」にしてしまえばいいのだと。「戻り異端」、異端再犯者は問答無用で死刑にすることができるから、改悛の後、もう一度、罪を犯すようにもって行けば良いのだと。こうすることによって、教会側もイギリス側も、満足させることができる。また、世間もそこまで行けば、もはやジャンヌ・ダルクを顧みることもないだろう・・・・・・。コーションが、ここまでシナリオを描いていたかどうか、今となっては誰にもわからない。
ただ、処刑裁判は、まさに、その通りに進行していった。最終的には、イギリス軍と教会の両陣営にとって納得の行く形で終了し、乙女ジャンヌは、火刑に処されることになった。
通常の人間ならば、ここまでやられたら、おそらく永久に浮かばれることがないだろう。しかしジャンヌ・ダルクという存在は、そうしたこすっからいもみ消し工作で、無かった事にしてしまえるような存在ではなかったのだ。
ジャンヌ処刑より約20年後、色々な理由からシャルル7世が、処刑裁判の見直しを命じた。様々な人々の証言から、コーションが、いかにえげつないやり方で、ジャンヌを葬ったかがわかり始めて来る。
裁判記録まで都合よく改竄したり、破棄したり、勝手に作って付け足したりしていたようである。とにかく周到に罠を張り巡らせ、あの手この手を使って、ジャンヌを陥れようとしていたのだ・・・・・・。まったく憐れな男である。
ルーアンでの処刑裁判は、1431年1月9日から始まって、同年5月29日で終わった。そして翌日の30日に処刑が行われた。その間、コーションが行った卑劣なやり方を見てみよう。
まず、予備審理で、ジャンヌの故郷ドンレミ村などでジャンヌに関する証言が集められたが、それらがジャンヌとって有利なものだったので、記録に残さなかった。
ジャンヌ・ダルクには弁護士がつけられなかった。これは慣例に反していた。世間知らずで無学文盲で弱冠19歳の乙女が、60名にも及ぶ偽善者たちの前で、自分自身を弁護しなければならなかった。
異端裁判の被告は教会内の牢獄に入れられ、被告が女性の場合は、牢番も女性でなければならない。しかし、ジャンヌは戦争捕虜としてイギリスの支配しているルーアンのブーヴルイユ城の牢獄に監禁され、しかも足に鎖を付けられていた。その上イギリス軍の中でも最低レベルの粗野で下品な男たちによって見張られていた。彼らは、ジャンヌを陵辱しようとしたり、暴力をふるったりしたようで、ジャンヌは傷だらけだったそうです・・・・・・。
始めは公開されていた裁判が、途中からは非公開となって牢内で行われた。これも規則違反。
一日に二回、各三時間の尋問。それも非常に巧妙な罠を張り巡らせた質問を、矢継ぎ早に投げかける。時には猫なで声で、時には誘導尋問、時には恫喝、何でもありだ。どんな小さなことでも、拡大して、あるいは曲解して異端の証拠にしてやろう!想像するだけでも毒気に当てられてしまう・・・・・・。尋問の間、ジャンヌは重い鎖をつけたまま立ち続けていなければならなかった。4月には生死をさまよう病気にもかかった(※毒殺という説もある)。ジャンヌは、精神的にも肉体的にも次第に追い詰められていくのであった。
そして、5月24日、とうとう、体力と精神力に限界が訪れた。サン・トゥーアンの墓地で、力尽きたジャンヌは、公衆の面前で、改悛したのである。その日、サン・トゥーアンの墓地に、大掛かりな法廷が開かれた。この時ジャンヌは「私は神に、そしてわが主教皇様にお任せいたします」と言った。宗教裁判では、被告がローマ教皇に助けを求めた時点で審理が中断されることになるそうです。つまり、裁判中でも教皇に上訴することができた。しかし、ジャンヌの言葉はあっさりと無視された。
そして、「異端思想を捨てないのなら、今すぐに火刑にする」と脅された。ラ・ピュセルは、火刑を極度に恐れていたのだ。死を恐れる彼女ではなかった。しかし火刑が怖かったのだ。
ヨーロッパのキリスト教社会では、現在でも火葬を嫌う。最後の審判のあと、復活するための肉体を、灰にしてしまったら、どうやって復活するというのか、ということでしょうか。
異端者が火刑にされるのは、彼らが吸血鬼として復活する恐れがあるからだったとも言われているそうです。当時は、火によって肉体と魂を焼き尽くせると考えられていたようですね。ジャンヌにもそうした知識があったのかもしれません。火刑に処されてしまった場合、肉体はおろか魂まで消滅してしまう。これが怖かったのではないだろうか・・・・・・。
体力気力が極度に衰えている状態で、「火刑にするぞ!」公衆の面前で脅されたラ・ピュセルは、とうとう力尽きてしまうのです。そして、改悛を誓います。しかし、この時にも、卑劣な罠が用意されていたのです。
裁判の時に読み上げられた誓約書と、記録に残っている誓約書が、別物であったことが、復活裁判のときに、判明するのです。公式の記録では誓約書はラテン語で書かれていて、何十項目もの誓約が記されていた。しかし、それとは別に、フランス語の記録が残されていて、多分それが、サン・トゥーアンの墓地で、ジャンヌが実際誓ったものだったであろう考えられている。その内容は、ジャンヌが聞いた声、すなわちミカエルやカトリーヌ、マルグリットたちの声は、本物ではなかったと認めるものであった。
改悛の誓約の前にジャンヌはこう言った。「教会の方々が、わたしは間違っていたと皆さんでおっしゃるのですから、わたしもそれに従います」と。最後の最後に、信念を曲げたジャンヌ・ダルク。しかしこの世に彼女を責めることができるほどの人物がいったい何人いるというのだろうか?
半年間も、薄暗く不潔な牢獄に鎖でつながれ、最低レベルの淫らな牢番たちに見張られ、絶えず陵辱の危険にさらされていて、暴行を受けたり、一日六時間から八時間ものいやらしい尋問を受けたり、時には、毒殺されかけたり、拷問にかけるぞ!と脅されたり、火刑の恐ろしさを吹き込まれたりと、ありとあらゆる手を使って追い詰められてきたのだ。19歳の乙女が。自分がその立場に立たされたらどうだろうか? ジャンヌが信念を曲げたことは、確かに悔しい。悔しいけれど、半年間、耐えたこと自体が奇跡だったのだ。
ラ・ピュセルの改悛の後、恩赦の判決文が読み上げられた。「ジャンヌよ、我々は恵みと節度とによって、汝が苦しみのパンと苦悩の水とをもって汝の残りの日々を牢獄で過ごし、そこで汝の罪を泣くことを申し渡す」
実は、この判決の前日(※5月23日)、ロワズルール、シャティヨン、モリスという人たちが、ジャンヌのもとを訪れ、もしジャンヌが教会に服従するならば、イギリス軍の手から逃れられるだろうと約束していた。
だから、改悛したジャンヌは、当然、教会の牢獄に移されるだろうと思っていた。しかし、結局、その約束は守られず、判決後、再びルーアンの城の牢獄に連れて行かれた。
ジャンヌが処刑を免れたのを見て、イギリス軍はいきり立ち、その場は騒然となった。激怒しているイギリス兵たちに、判事の一人が言った。「心配しないでください。我々はまたあの女を捕まえます」と・・・・・・。これはコーションたちが、ここまでの展開を予測していたから吐ける言葉であります。
牢獄に戻されたジャンヌは、教会に従って女物の服を着ることになった。それまではずっと男装だったのだ。そして案の定、下品な牢番たちは、鎖につながれたジャンヌを、スキあらば犯そうとした。そして抵抗するジャンヌを殴りつけたのである。また一人のイギリス紳士が、ジャンヌの処女性を奪えば、魔力が消えると考えて、ジャンヌを陵辱しようとしたようだ。
そして5月27日、ジャンヌは身を守るために、再び男装に戻った。これは明らかに、ジャンヌが男装に戻るように仕組まれた罠だったのだと思う。サン・トゥーアンの改悛の誓約書には、男装をやめるという誓約も書き込まれていた。だから、男装に戻らせてしまえば、戻り異端として問答無用で処刑することができるというわけだ。
5月28日、ジャンヌが男装に戻ったという報告を受けたコーションは、「よし!やってくれた」と思ったことだろう。「これで、ジャンヌを戻り異端として、処刑することができるぞ!」・・・・・・。男装に戻ったジャンヌを、コーションは尋問した。
このとき、ジャンヌは、もう覚悟していたようだ。ジャンヌにとって男装の問題よりも、「天使の声」を否定したことのほうが、はるかに深刻な問題だったのだ。それに、イギリス軍の手から離れ、教会の牢に移してもらうという約束も破られている。残りの人生を、こんな牢獄で鎖につながれて暮らすぐらいならば・・・・・・、という思いもあっただろう。
彼女は、再び天使が現れたと、コーションに言った。もう、これで完全な戻り異端である。しかしジャンヌには一片の悔いもない。むしろ、真の信仰を失いかけた自分を恥じていたことだろう。
その時の裁判の記録には、このようなジャンヌの毅然とした言葉が記されている。
ジャンヌを尋問した後、外で待っていたイギリス人たちにコーションは大声で「おめでとう。万事片づきました。おごって下さいよ」と言ったそうである。そう、すべては終わったのだ・・・・・・。 コメント (4 件)![]() ![]() 大和 春道 - 2006年 2 月 7 日 - 削除 んーっ、長くなりすぎた・・・(^^;。はじめは要点だけ紹介するつもりだったのですが、書いているうちに、だんだん悔しくなってきて・・・。 ![]() ? さらん? - 2006年 2 月 8 日 - 削除 お元気でしたか?
きっと、私もジャンヌのように・・・・ 闘うかもしれない。いつか。 時は、必ず来る*
そう思って、生きてきたんです。
佐々木さ~~ん! 最近、お元気ですかね?心配。 ![]() ![]() 佐々木宏明 - 2006年 2 月 8 日 - 削除 佐々木さ?んの声につられて、やってきました(笑)。 八正道の奥義を深めるべく(笑)、最近、映画三昧の毎日です(?)。 やはり、映画はスクリーンで見ないとダメですね。 お薦めは、「プライドと偏見」。 結婚というゴール(?)に到達するまでの、彼氏と彼女のすれ違いや葛藤が、 「うんうん、自分にも体験あるある」と思わず、ニンマリしてしまう秀作です。 今日は、奥義を深めるため、飲みにいこ?っと(笑)。 ![]() 大和 春道 - 2006年 2 月 9 日 - 削除 さらんさん、佐々木さん、コメントありがとうございます。
さらんさんへ
僕は元気です(^^)。さらんさんの「さらん」って、日本語の「愛」を意味するそうですね。最近、愛について色々考えています。そういう年頃なのですかねえ(^^;。あったかい思いがこみ上げてきて、どうしようもなくやさしい気持ちになってしまう時があるじゃないですか。いつも、そんな状態でいられたらなって。
佐々木さんへ
僕も映画大好き人間です。映画館に行くことは滅多にないですが、ビデオやDVDをかりて、よく見ました。最近は、あまり見てません。僕は、コミカルでちょっと泣けるラブ・ロマンスが好きですね。今の怖い映画って、シャレにならないぐらい怖いので、情けないですが、怖くて見ることができません(^^;。
ではでは。
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大地を枕に-元気ですか? 僕は元気です。- |
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Author:大和春道 |
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