15.『日蓮の霊言』を読む⑮ :: 2007/04/07(Sat) |
20070407 00225 15.『日蓮の霊言』を読む⑮ 六章 シルバー・バーチ霊言集の問題点(パート1) より個性的になること、これが魂修行の目的だ 善川 私は最近『シルバー・バーチ霊言集』を読みましたがモーリス・バーバネル氏を通して語られた過去五十年間における、インディアンのシルバー・バーチという古代霊の語ったところの記録ですが、その内容においては、私の知る限り、大筋においてその理論は「正法」、「神理」に沿った線で貫かれていると思いましたが、その間に一、二点、まだ納得し難いものがあるのと思うのですが、お尋ねしてよろしいか。 どうぞ―― 善川 その一つには、シルバー・バーチは「群魂」説を明らかにし、個々の魂が死後において、類は類によって集まるという法則に従って、群魂となって一つの大きな魂、集団の中へ没入してしまうのだ、ということですが、これは、かつて高橋信次先生が説かれた、魂の兄弟、即ち五体の分身説とはかなり異なる意見だと思いますが、死後においても魂は個体と申しましょうか、個別の個性霊として各個に存続するものか、或いは一塊の魂軍団を造るのか、これはどうでしょう。 まず言えることは、今の質問は、あなた方の目指す方向には、さほど意味がないということです。 そもそも、創り方がどうであるかということ、みんな一体なんです。すべてが魂の兄弟であり、すべてが神から分かれてきているのです。果たしてそれが五人でできているか、群魂でできているかというようなこと、それは追いおいに、明らかになっていきます。そのためには、あなた方は、もっと、もっとケース・スタディが必要なのです。さまざまな霊たちを通じて、さまざまなことを学んでいく必要があります。それにもう一つは、霊界の法則、霊界の科学法則というもの、まだまだ、あなた方は、基本公式を充分に知っていないために、その公式に基づいたさまざまな現象が理解できない。そうしたことを一つひとつ、学んでいってもらわねばなりません。 群魂とか、分身、本体ということについて私が言うこと、そういうこともあり得ます。どちらか一つが真理で、どちらか一つが真理でないということでもあります。 もっと大きな視点に立って、真理が分かった人なら、そうした質問さえ出てこないということです。 あなたは、まだ三次元的発想にとらわれているんですが、残念ながら私は、あなたにそれを充分に理解させることはできません。 なぜなら、あなたはそちらの世界に居るからです。あなたが私たちの世界に来たならば、そういう質問もでなくなるのです。 (「日蓮の霊言」P192~P194) 善川先生は、シルバーバーチの「類魂(群魂)」説と「本体・分身」理論、いったいどちらが正しいのか?と疑問を感じた・・・・・・。しかし、日蓮聖人からは、「どちらでもよいのです、そんなことは」と、またまたバッサリ切り捨てられています(^^;。 それでは話しが続かないので、シルバーバーチに登場してもらうことにしましょう。 ちなみに、「人間は、死後、大きな意識体の中に、溶け込んでしまって、個性を失ってしまう」という考えが、シルバーバーチの説く「類魂」説であると、善川先生は受け受け止めているような感じがしますが、もし、そうだとしたら、それは誤解です。シルバーバーチの霊訓を読めば分かると思うのですが、「類魂」説と「本体・分身」理論は、基本な考え方の部分で、ほとんど一致していると思います。 では、しばらくの間、シルバーバーチの言葉に、耳を傾けてみましょう。 「知識と体験の多い少ないの差がそうした諸説を生むのです。再生の原理を全面的に理解するには大変な年月と体験が必要です。霊界に何百年何千年いても、再生の事実をまったく知らない者がいます。なぜか。それは、死後の世界が地上のように平面的ではなく、段階的な内面の世界だからです。その段階は霊格によってきまります。その霊的段階を一段また一段と上がっていくと、再生というものが厳然と存在することを知るようになります。もっともその原理はあなた方が考えるような単純なものではありませんが・・・・・・」 (「古代霊は語る」P70) 「・・・・・・(略)。何度も言っていることですが、地上で見せる個性は個体全体からすればホンの一部分にすぎません。私はそれを大きなダイヤモンドに譬えています。一つのダイヤモンドには幾つかの面があり、そのうちの幾つかが地上に再生するわけです。すると確かに一時的な隔絶が生じます。つまりダイヤモンドの一面と他の面との間には物質という壁が出来て、一時的な分離状態になることは確かです。・・・・・・(略)」 (「古代霊は語る」P85) 問 「それはフレデリック・マイヤースのいう類魂と同じものですか」 「まったく同じです。ただし、単なる霊魂の寄せ集めとは違います。大きな意識体を構成する集団で、その全体の進化のために各自が物質界に体験を求めてやって来るのです」 問 「その意識の本体に戻った時、各霊は個性を失うのではないかと思われますが・・・・・・」 「川が大海へ注ぎ込んだ時、その川の水は存在が消えるでしょうか。オーケストラが完全なハーモニーを演奏している時、バイオリンならバイオリンの音は消えてしまうのでしょうか」 (「古代霊は語る」P87) 問 「死後、霊界に行ってから地上生活の償いをさせられますが、さらに地上に再生してからまた同じ罪の償いをさせられるというのは本当ですか。神は同じ罪に対して二度も罰を与えるのですか」 「償うとか罰するとかの問題ではなくて、要は進化の問題です。つまり学ぶべき教訓が残されているということであり、魂の教育と向上という一連の鎖の欠けている部分を補うということです。生まれ変わるということは必ずしも罪の償いのためとはかぎりません。欠けているギャップを埋める目的で再生する場合がよくあります。もちろん償いをする場合もあり、前世で学ぶべきでありながらそれを果たせなかったことをもう一度学びに行くという場合もあります。罪の償いとばかり考えてはいけません。ましてや二度も罰せられるということは決してありません。神の摂理を知れば、その完璧さに驚かされるはずです。決して片手落ちということがないのです。完璧なのです。神そのものが完全だからです」 (「古代霊は語る」P90)
「います。それがわかるようになる段階まで成長すれば自然にわかるようになります。光に耐えられるようになるまでは光を見ることができないのと同じです。名前をいくつか挙げても結構ですが、それでは何の証拠にもなりますまい。何度も言ってきましたように、再生の事実は”説く”だけで十分なはずです。私は神の摂理について私なりに理解した事実を述べているだけです。知っている通りを述べているのです。私の言うことに得心がいかない人がいても、それは一向にかまいません。私はあるがままの事実を述べているだけですから。人が受け入れられないからといって、別にかまいません。私と同じだけの年数を生きられたら、その人もきっと考えが変わることでしょう」 問 「再生問題は問題が多いから、それを避けて、死後の存続ということだけに関心の的をしぼるという考えは如何でしょう」 「暗やみにいるより明るいところにいる方がいいでしょう。少しでも多くの法則を知った方が知らないよりはましでしょう。人間が神の分霊であり、それ故に死後も生き続けるという事実は、真理探求の終着点ではありません。そこから本格的探求が始まるのです」 (「古代霊は語る」P90~P91) 「・・・・・・(略)。知識はすべて大切です。これだけ知っておれば十分だ、などと考えてはいけません。私の方は知っていることを全部お教えしようと努力しているのですから、あなた方は吸収できるかぎり吸収するよう努めていただきたい。こんなことを言うのは、決して私があなた方より偉いと思っているからではありません。知識の豊富さを自慢したいからでもありません。自分の知り得たことを他人に授けてあげることこそ私にとっての奉仕の道だと心得ているからにほかなりません。 知識にも一つ一つ段階があります。その知識の階段を一つ一つ昇っていくのが進歩ということですから、もうこの辺でよかろうと、階段のどこかで腰を下ろしてしまってはいけません。人生を本当に理解する、つまり悟るためには、その一つ一つを理解し吸収していくほかに道はありません。 このことは物質的なことにかぎりません。霊的なことについても同じことが言えるのです。というのは、あなた方は身体は物質界にあっても実質的には常に霊的世界で生活しているのです。従って物的援助と同時に霊的援助すなわち霊的知識も欠かすことが出来ないのです。ここのところをよく認識していただきたい。・・・・・・(略)」 (「古代霊は語る」P43~P44) 問 「先天性心臓疾患の子や知能障害児は地上生活を送っても何の教訓も得られないのではないかという人がいます。私たちスピリチュアリストはこうした難しいことは神を信じて、いずれは真相を理解する時が来ると信じているわけですが、疑い深い人間を説得するいい方法はないものでしょうか」 「疑い深い人間につける薬はありません。何でも疑ってかかる人は自分で納得がいくまで疑ってかかればよろしい。納得がいけばその時はじめて疑いが消えるでしょう。私は神学者ではありません。宗教論争をやって勝った負けたと言い争っている御仁とは違います。すべては悟りの問題です。悟りが開ければ、生命の神秘の理解がいきます。もっとも、全てを悟ることは出来ません。全てを悟れるほどの人なら、地上には来ないでしょう。地上は学校と同じです。少しずつ勉強し、知識を身につけていくうちに、徐々に霊性が目覚めていきます。すると更に次の段階の真理を理解する力がつくわけです。それが人生の究極の目的なのです。激論し合ったり、論争を求められたりするのは私はごめんこうむります。私はただこれまで自分が知り得たかぎりの真理を説いて教えてさしあげるだけです。お聞きになられてそれはちょっと信じられないとおっしゃれば、”そうですか。それは残念ですね”と申し上げるほかありません」 (「古代霊は語る」P93~P94) 問 「あなたがダイヤモンドに譬えておられるその”類魂”について、もう少し説明していただけませんか。それは家族(ファミリー)関係のグループですか、同じ霊格を具えた霊の集団ですか、それとも同じ趣味をもつ霊の集まりですか。あるいはもっとほかの種類のグループですか」 「質問者がファミリーという言葉を文字通りに解釈しておられるとしたら、つまり血縁関係のある集団と考えておられるとすれば、私のいう類魂はそれとはまったく異なります。肉体上の結婚に起因する地上的婚姻関係は必ずしも死後も続くとはかぎりません。そもそも霊的関係というものは、その最も崇高なものが親和性に起因するものであり、その次に血縁関係に起因するものが来ます。地上的血縁関係は永遠なる霊的原理に基くものではありません。類魂というのは、人間性にかかわった部分にかぎって言えば、霊的血縁関係ともいうべきものに起因した霊によって構成されております。同じダイヤモンドを形づくっている面々ですから、自動的に引き合い引かれ合って一体となっているのです。その大きなダイヤモンド全体の進化のために個々の面々が地上に誕生することは有り得ることですし、現にどんどん誕生しております」 問 「われわれ個々の人間は一つの大きな霊の一分子ということですか」 「そういってもかまいませんが、問題は用語の解釈です。霊的には確かに一体ですが、個々の霊はあくまでも個性を具えた独立した存在です。その個々の霊が一体となって自我を失ってしまうことはありません」 問 「では今ここに類魂の一団がいるとします。その個々の霊が何百万年かの後に完全に進化しきって一個の霊になってしまうことは考えられませんか」 「そういうことは有り得ません。なぜなら進化の道程は永遠であり、終りがないからです。完全というものは絶対に達成されません。一歩進めば、さらにその先に進むべき段階が開けます。聖書に、己れを忘れる者ほど己を見出す、という言葉があります。これは個的存在の神秘を説いているのです。つまり進化すればするほど個性的存在が強くなり、一方個人的存在は薄れていくということです。おわかりですか。個人的存在というのは地上的生活において他の存在と区別するための、特殊な表現形式を言うのであり、個性的存在というのは霊魂に具わっている神的属性の表現形式を言うのです。進化するにつれて利己性が薄れ、一方、個性はますます発揮されていくわけです」 (「古代霊は語る」P95~P97) 問 「寿命は魂そのものが決定するとおっしゃいましたが、すべての人間にあてはまることでしょうか。たとえば幼児などはどうなるのでしょう。判断力や知識、教養などが具わっていないと思うのですが・・・・・・」 「この世に再生する前の判断力と、再生してからの肉体器官を通じての判断力とでは大きな差があります。もちろん再生してからの方が肉体器官の機能の限界のために大きな制限を受けます。しかし大半の人間は地上で辿るべき道程について再生前からあらかじめ承知しています」 問 「地上で辿るべきコースがわかっているとすると、その結果得られる成果についてもわかっているということでしょうか」 「その通りです」 問 「そうなると、前もってわかっているものをわざわざ体験しに再生することになりますが、そこにどんな意義があるのでしょうか」 「地上に再生する目的は、地上生活から戻って来て霊界で行うべき仕事があって、それを行うだけの霊的資格(実力)をつけることにあります。前もってわかったからといって、霊的進化にとって必要な体験を身につけたことにはなりません。たとえば世界中の書物を全部読むことは出来ても、その読書によって得た知識は、体験によって強化されなければ身についたとは言えますまい。霊的生長というのは実際に物ごとを体験し、それにどう対処するかによって決まります。その辺に地上への再生の全目的があります」 (「古代霊は語る」P100~P101) これらのシルバーバーチの言葉を読めば、基本姿勢、あるいは基本的な考え方は、「正法」そのものだと言って良いと思います。「類魂」説に関しても、基本的な考え方は、「本体・分身」理論とほとんど同じです。グループの人数の相違とか、転生輪廻の回数の考え方などの違いはあるのですが、そういうのは、枝葉末節なのですね。大切なのは、何のために生まれ変わるのかという点なのです。それは、一言で言うならば「魂修行」だということです。神様に向かって「進化」していくということ、「大調和」を目指し向上していくということ、こうした目的のために「生まれ変わり(再生)」があるということであります。この部分の考え方が一致していれば、後は枝葉末節だと考えてもいいのです(^^;。 では、「魂修行」とは、具体的に何を目指しているのでしょうか。より「個性」的になっていくことを目指すものなのか?、それとも「個性」を滅していって、最終的には、より大きな意識体の中に溶け込んで、「個性」を消滅させてしまうことが目的なのか?・・・・・・。 ある人たちは、「神様には人格や個性というのもがない」と考えています。そうした人たちにとっての人間の「進化」とは、人格や個性を剥ぎ取ってしまって、人格のない、個性のない、「のっぺらぼう」のような人間になることなのですね(^^;。そして、個性の無い神様と合一すること、こうしたことを実現するための「魂修行」だと考える。自分を失うための、あるいは、自己滅却のための「魂修行」だということです。 しかし、もし人類のすべてが進化して、無個性になって、「のっぺらぼう」人間になってしまったら、どうでしょうか(^^;? それが、本当に、人類の進化と言えるのでしょうか。僕は違うと思うのです。個性を滅することが人間の進化だというのならば、行き着く先は、「のっぺらぼう」人間ばかりの世界がユートピア世界だということになってしまいます(^^;。それだけは勘弁して欲しい・・・・・・。むしろ逆で、一人一人が己の個性を磨いて、より自分らしくなっていくこと、それぞれがまったく異なる美しい光を放っていくこと。バラはバラとして、ユリはユリとして、ひまわりはひまわりとして、それぞれが精一杯に自己を表現して神の花園を彩ること。こうした在り方こそが、本当の大調和であり、それを目指して個々人が努力する過程こそが、人類の進化へとつながっていくのだと思うのです。 要するに「神様には個性や人格がない」という考え方は間違っているのではないかということすね。神様を「のっぺらぼう」のような存在だと考えるから、神様に近づくためには、己自身も「のっぺらぼう」にならなければならないということになってしまう。でも、それでは本当のユートピア世界はやってこないだろう。神様はすべてのすべてなのです。”ありんこ”としてあらわれることもできるし、野の”花”となることもできる。何でも出来る。そもそも人類の一人一人が、神様のあらわれなのですね。神様は、あらゆる人格をつくり、それを通してあらわれることが出来る。あらゆる人格、あらゆる個性を生み出すことができるということです。「神に個性はない」という考え方は、とんでもない曲解で、すべての人格、すべての個性の生みの親が神様である以上、すべての人格もすべての個性も、もともと神様の中に存在しているということなのです。現に、地上を見渡しても、神様はあらゆる個性的な形をとってあらわれている。結局それは、神様が「個性的であることを善し」としているということだと思うのです。 ※たとえば、「光」というものは、無色透明で、一見、個性がないように思えます。しかし、実は、あらゆる色の光を内に含んでいるのですね。その証拠に、プリズムを通過すると七色に分光します。つまり、あらゆる色の光をすべて集めると、あら不思議、無色透明になってしまうということなのです(^^;。神に人格や個性がないように思えるは、それと同じことと考えてよいと思います。 そういうことをつらつらと考えてみると、神様のあらわれである人間の「魂修行」とは、画一化した「金太郎あめ」人間になることが目的ではなくて、逆にそれぞれの「個性」を最大限に活かすことではないかと思えるのです。それこそが、神様の願いなのではないのかなと思えるのであります。たとえば、Aさんは、宇宙にたった一人のAさんでいい。他の誰かになる必要などない。Aさんは、Aさんのままで、どんどん「個性」を活かして行けばよい。百人いれば百通り、千人いれば千通りの「個性」があっていい。その「個性」に更に磨きをかけていくことが「魂修行」ではないかということです。 たとえば、オーケストラ。バイオリンやチェロやいろんな楽器のハーモニーが、壮大な美を生み出す。今の人類は下手なオーケストラのようなもの。各演奏者の心も腕前も未熟であります。バイオリンもチェロも良い音色を奏でていません。楽譜も見ない、指揮者も無視して、みんな好き勝手にして演奏して、不協和音を奏でています。どうすれば素晴らしいオーケストラになるのか? それはやはりバイオリンはバイオリンに徹すること。まず、最高の演奏技術とハートでバイオリンを弾くことができるようになること。これがバイオリンの「個性」を活かすということです。そして他の楽器の演奏者も、その楽器を最高の技術と真心で演奏すること。それぞれがそれぞれの楽器の「個性」を最高に生かしたときに、最高のシンフォニーを奏でることができる。これが大調和であります。 大調和とは、何でもかんでもミキサーにかけて、均一に混ぜ合わせてしまうことではない。すべてのものが独自性を強調しながらも、全体として絶妙のハーモニーを奏でているような状態なのです。バイオリンはバイオリン、クラリネットはクラリネットであっていいのですね。人間も同じことなのです。一人一人が自分自身の個性を輝かせることです。自分に徹すること、一人一人が唯一無二の自分を生きることだと思うのです。それは、好き勝手にやれ、やりたい放題やれという意味ではない。本当に自分の個性を輝かすというのは、地球オーケストラの一員として、みんなと心を合わせて、最高の心と技術で自分自身というメロディを奏でるということ。そうすれば、自分自身の個性を最大限に活かしながら、全体の調和に貢献することができると思うのです。 もし、「個性」というものがいけないものであって、みんなが「無個性」にならなければならないのであるのならば、例えばオーケストラで考えると、バイオリンという一種類の楽器だけで演奏しなければならなくなってしまうことになる。しかしそんなものには味がないのですね(^^;。あれもあって、これもあって、そのすべてが独自性を持ちながらも渾然一体となって、ハーモニーを奏でているところにオーケストラの妙味というものがある。地上のユートピアのもまさにそうであります。森羅万象、それぞれが自己に徹することは、一見、それぞれがバラバラなように見えますが、実は、それぞれが神様のいろいろな楽器、たとえばバイオリンやクラリネットやトランペットなどを担当している神のオーケストラの一員なのです。 ま、そういうことです。「個性」を剥ぎ取ることを人間の成長だと勘違いしてはならないのです。逆に「個性」をより磨いていくことです。死んで、すべてが終わるなら、死ねば、せっかく磨いた「個性」も消えてしまって、何の意味もないような気がするけれど、有り難いことに、「死後も魂は生きていて、しかも、個性が存続している」らしいのだ・・・・・・。だから、すべての努力は、確実に自分自身に返ってくる。自己を最大限に活かしながらも、全体の調和に貢献することができる。実に素晴らしい仕組みであります。 参考のため、「生命の実相」からも引用しておきたいと思います。「個性」を認めるのは、すぐれた「霊界通信」の共通点であります。 個性的意識は、進化の過程を通じて層一層個性的となるものであるか? またスピリットは常に自己自身の存在と継続と同一自己を意識しているか? それともある教義でとなうるごとく、進化するということそのことのために、個性的意識が普遍的意識に吸収されてしまうものであるか ―― すなわち霊魂の進化とは緩徐なる個性の破壊的過程であるのか? 自分(※コルニリエ氏のこと)のこの問いに対してレイヌ(※霊媒の女性)は鋭い注意をあつめて聴いていたが、自分の方へ振り返った―― 「コルニリエさん。ヴェッテリニ(※通信を送ってくる高級霊)のおっしゃるところによりますと、個性的意識は進化の度が進むに従っていよいよますます大となるのです。霊魂が一生涯によって獲得し征服したすべては、その霊魂の個性をそれだけ明瞭にそれだけ強大にするのです。個性は彼のものです。彼のみのものです。蒼色のスピリットは灰色のスピリットよりも個性が明瞭です。白色のスピリットは蒼色のスピリットよりもなおいっそう個性的です。なおいっそう高級なスピリットは、なおいっそう自分自身であるのです。The Still higher Spirits are Still more themselves.」 上記の意味の厳粛な回答をヴェッテリニはしたほかに、彼は個性を滅することを高き進化とみとめる一派の思想家に対して、鋭い批評をあびせかけたものらしい。自分はレイヌがヴェッテリニに対して「それはあまり過酷な批評ですわよ。・・・・・・なぜあなたはこの一派の思想家にそんなに憤慨なさるんです?・・・・・・これらの人たちもまた真理を発見しようとしてるんじゃありませんか」といっているのを傍らから聞いたからである。(1913年4月2日) (頭注版「生命の実相」第9巻P135~P136)
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大地を枕に-元気ですか? 僕は元気です。- |
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Author:大和春道 |
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