20070302(20090301) 00361 9.『日蓮の霊言』を読む⑨ 四章 宗教問題について(パート1) 焦らず着実に、静かに遠くまで 過去の人の例をみても、この点は素晴らしいけれど、この点は間違いであって、或いは改める必要があるといったことがあるはずです。そのときに、あなた方は過去に学ばなければいけないのです。この人は、こういうやり方をして失敗している。ならば私たちはこうしよう。この程度のことが思い浮かばないのでは、どうにもなりません。なぜ、日蓮、といわれた人間があれだけの迫害を受けたのか、もちろん私は、それなりの使命を受けて、自らのやるべきことをやりました。けれども、私が迫害を受けた理由は一体なんであろうか―、他宗の排撃をやり過ぎておるのです。ご承知のはずです。敵を自ら造り過ぎているのです。敵というものは、どうしても出てきます。しかしながら敵というものは、積極的に造り出していくものではない。できたら避けた方がいいのです。避けていきたくとも出てくるのが敵です。良い教えであるならば、本当に良い教えであるならば、他のものを批判せずとも、良いものは人から人へと、伝わっていくものです。批判しなければ良いものであるということが分からないような教えならば、その教えもまた、不完全なものであるということです。 私は、他宗の排撃をやりました。それは、自らの理想を実現せんと、一刻も早く実現せんという焦りの思い、短兵急な思いから発しているのであって、決して悪意はなかったつもりではありますけれども、結果として多数の敵を持ちました。そして本来ならば、もっと多くの人たちに、説くことができた教えを説けなかったことが多かった。 それはそうでしょう。島流しに遭い、或いは、いろいろな法難を受けて、なかなかすべての人に法は説けないのです。 いたずらに私は敵を造った。あなたは、ご存知でしょう、「良観」という人であります。その者に対し、戦いを挑んだりしました。その心の中には、私の名誉欲があったことは、否めません。これも反省すべきことであります。 例えば、私個人の例をとって考えてみると、あなた方にとっての、これからの勉強に、或いは参考になろうと思われることがあります。 その第一点は、敵を造るなということです。みだりに敵を造るな、ということ。いま一つは、あまり焦らないことです。少しずつ少しずつ、着実に力を蓄えていくことです。 (「日蓮の霊言」P130~P132)
これは、お釈迦様とイエス様の生き方を比較すると、分かり易いのではないかなと思います。これは、真理伝道者にとって、永遠のテーマといえるかも知れません。近年では、谷口雅春先生と高橋信次先生の生き方を比較すると、同様のテーマが浮かび上がってくると思います。お釈迦様や谷口先生は、大悟されてから40年、50年と、うまずたゆまず「法」を説き続け、そして自分自身の魂修行も怠ることがありませんでした。その結果、膨大な量の「教え」が後世に伝えられることになったのです。彼らの残した教えは、真理をあらゆる角度から解き明かしたもので、非常に多彩、かつ、深遠なものでありました。我々凡夫では、一生を費やしても学び切ることが出来ないようなものです。しかし、やさしい段階の教えから深遠な哲学まで、無数の法門がありまして、どんな人にも、その人に最も適した入り口が、必ずどこかに用意されているのであります。 彼らの「教え」が、膨大な書物として残ったこと、これは後世の人々にとっては、非常に有り難いことでした。彼らの残した真理の書が、多くの人々の学びの材料となり、人生の指針となってきた。そして、今後も多くの人々を導いていくことでしょう。 なぜ、これだけの大きな仕事を残すことができたのかということを考えてみると、やはり、40年、50年という長期間、「法」一筋に精進してきたからであります。じゃ、なぜ、それほどの長期間に渡って精進できたのかというと、一つには、みだりに敵を造らなかったという点にあると思うのです。法敵というのは、嫌でも現れてくるものですが、対応の仕方一つで、最小限に抑えることができるのですね。 お釈迦様は、弟子たちに、他宗の人々との論争を禁じたそうです。当然、お釈迦様ご自身も、積極的に論争をすることはなかったと思います。議論、論争で、切磋琢磨して、成長していくという考えも素晴らしいのですが、それは、いかなる時であっても、「平常心」を保つことができる立派な人々の話なのですね(^^;。そういうレベルの人たちが、議論を戦わせるならば、大いに収穫があることでしょう。しかし、たいていは、論争のための論争であって、お互いの成長のための論争ではないのです。 論争を仕掛けるような人間は、相手を論破してやろうと思って仕掛けるものです。争いの想念に突き動かされているのですね。だから、仕掛けられた側が、そうした念をまともに受け止めてしまうと、心の調和が乱れてしまうものなのです。こうした心の乱れは、修行者にとっては、退転以外の何ものでもないのであります。だから、修行者たる者、論争している時間があるのならば、その時間を自己確立のために使うべきではないか?・・・・・・。 また、「法」を説く立場にある方々も同じことです。「法」を説く立場にあるような方々は、心が相当磨けているはずですから、論争をしても、おそらく、心が乱れるようなことはないでしょう。しかし、論争によって奪われた時間は二度と取り戻すことができないのであります。世の中には、あと少しのヒントで脱皮できそうな人が大勢いるはずです。彼らは、ヒントを求めているのです。「法」を待っているのです。その人たちのために使うべき時間を、論争に費やしてしまったのではないか?、ということ。論争にうつつを抜かしている暇があるのなら、まず、真剣に求めている彼らに、「法」を説くのが筋道ではないだろうか、ということであります。 ま、こういう考え方が、お釈迦様の考え方だったのだと思います。極力、論争しない、敵を造らない。論争は敵を造る。敵を造ってしまうと、心の調和が乱れ、また、貴重な時間も奪われてしまう。論争している人は、一見、華々しく活躍しているように見えるかもしれない。しかし、彼の修行は遅々として進まない。そして、やがて、敵との戦いに疲れ果て、力尽き、倒れてしまう。彼が論争している間に、黙々と修行を続ける者は、その分だけ着実に前進していく。静かに歩む者は、遠くまで進むことができる。30年、40年、50年とコツコツと積み重ねて行くことができる。結局それが己のためにもなり、世の中のためにもなる、自利利他の生き方ではないか。 一方、イエス様の伝道期間はわずか三年です。信次先生は七年です。イエス様の教えは、新約聖書の福音書に残されていますが、仏典などと比較すると、わずかな量であります。信次先生の残した本は十数冊です。谷口先生の数百冊と比較すると、これもまた僅かであります。「量より質」と申しますから、これだけの量でも充分、「救世の法」として通用するという考え方もあるでしょう。しかし、もし、イエス様や信次先生が50年間、「法」を説き続けていたら、きっと、もっともっとたくさんの素晴らしい「教え」が残されていたと思うのです。もっと、たくさんの言葉が残ったからといって、何か不都合なことでもあるでしょうか?・・・。まったく、ないのであります。やはり、もっとたくさんの言葉を残して欲しかったと、誰もが思っているのではないでしょうか。 なぜ、残せなかったのか。それは、伝道期間が短すぎたからです。どうして、伝道期間が短かったのか。イエス様の場合、敵を造り過ぎたのですね。最終的に、十字架にかけられることは、決まっていたとしても、その時期に関しては決まっていなかったと思うのです。やり方によっては、50年間とは言いませんが、20年や30年ぐらい法を説くことができたかもしれない。しかし、激しい性格のイエス様には、ことを荒立てず、穏やかに穏やかに活動することなどできなかったのですね。パリサイ人に対する批判の激越なさまは、尋常ではなかったと思います。日蓮聖人とどっこいどっこいです(^^;。神様を深く深く愛するがゆえに、神様の御心が那辺にあるのかを熟知しているがゆえに、パリサイ人たちの偽善的な生き方が、どうしても許せなかったのだと思います。 福音書を読めば分かるのですが、「ここまで言うか」と思うぐらい、激しい口調で、偽善者たちを弾劾しています。イエス様は、愛の人ですが、偽善者に対しては、容赦しなかった。神殿で、商売している人たちを見たときは、怒りで、切れてしまって、鞭で追っ払ったりしたこともあったようです。やさしいだけの人ではなかったのですね。弱者に対しては、どこまでもやさしいけれど、権力を笠に、威張り散らして、弱者を泣かせているような連中に対しては、どうしても我慢できなかったようです。ま、こうした性格が多くの敵を生みだしてしまったのです。ただの敵ではありません。イエス様の敵は、イエス様を殺そうと画策していたのです。これは、見方を変えれば、相手に殺意を抱かせるほど、イエス様の舌鋒が鋭かったということです。三年という伝道期間が、天上界の約束事だったのか、それとも、イエス様の激しい性格が災いして、三年になってしまったのか、これは、私には分かりません。 しかし、いくら何でも、伝道期間が三年というのは、あまりにも短かったのではないか? 残された「教え」は、福音書に記されたわずかな言葉だけ・・・・・・。それらの言葉は、英知そのもでありました。また、非常に格調が高く、非常に美しい言葉でありました。それだけに、残念に思えて仕方がありません。 高橋信次先生の場合は、48才で帰天する予定になっていたらしいです。伝道期間は、わずか7年ほどです。これも短すぎる。やはり、もっともっと長生きして、もっともっと教えを説いて欲しかったと思う。もっともっと本を残して欲しかった。今、2007年ですから、もし、生きておられたら、80才ぐらいです。だから、あと十年ぐらいは、法を説くことができたと思うのですね。我々も、直接、教えを聞くことができたかもしれないのです。そう思うと本当に残念です。 まあ、とにかく、長期に渡る活動と、短期間の活動とでは、残る「教え」の量と質がまったく違うのであります。しかし、だからといって短期間はダメかというと、これが、不思議なことですが、そういうわけではない。お釈迦様とイエス様、谷口先生と高橋先生、同じ真理を説いているにもかかわらず、非常に対照的な生き方だったと思います。しかし、総合的に見ると、どちらが、より偉大なのか、これは、もう分からないのですね(^^;。 イエス様や信次先生は、伝道期間は短かったけれども、その期間を桁外れの「情熱」で駆け抜けたのであります。この「情熱」が、人々の心を打ち振るわせるのであります。共鳴現象を引き起こすのであります。残された言葉は少ないかも知れない。その「教え」は、バラエティ豊かというには、ほど遠いかもしれない。しかし、それらの短所を補ってなお有り余るほどの桁外れの情熱があった。完全燃焼した。その壮絶な生き様が、「法」そのものとなっているのです。その生き方が、時代を超えて、人々の魂を揺さぶっているのです。情熱が伝染していく。イエス様からペトロやパウロへ、そして、ペトロやパウロから、また別の誰かに・・・・・・。このようにして、イエス様の情熱が、時代を超えて現在まで継承されて来ているのです。 だから、そういう意味では、日蓮聖人の生き方は、あれはあれで素晴らしいと思うのです。確かに、功罪はあると思います。日蓮聖人が排撃した念仏の教えや禅宗も、「法華経」と同じく、「正法」の流れの一つなのであります。つまり、日蓮聖人は、「正法」の仲間たちを排撃していたのですね。それは、悲しい出来事でありました。しかし、日蓮聖人の「真理」に対する情熱には、凄まじいものがある。この情熱は誰にも負けなかった。「法華経」こそ最高の真理だという確信が強ければ強いほど、他宗の欠点が大きく見えてくるものなのです。また、すべての人々に、「法華経」に帰依して欲しいという思いがどんどんと高じてくるものなのです。そういう気持ちが「他宗排撃」という形をとって表れてしまったのだと思うのです。 日蓮聖人は、「旧約の預言者」的な存在だっだということです。仏教は中道を旨としていますから、仏教的に見ると日蓮聖人は、ちょっと特異な存在です。しかし、もし日蓮聖人を、イスラエルの「旧約の預言者」だと考えたら、まったく違和感がないのですね。要するに、一神教の預言者の生き方を、日本の鎌倉時代にやってしまったということなのです。一神教では、「他宗排撃」は当たり前のことなのであります。キリスト教も、「愛しましょう」「許しましょう」とか、きれい事を言っていますが、実は一神教でして、キリスト教発展の歴史は、「他宗排撃」と裏表になっているのです。 こういう感じで、真理伝道は大別すると、お釈迦様タイプとイエス様タイプがあるということです。それぞれ、一長一短があるのです。どちらが良いとは決め付けられない。静かに長く続けて、多くの遺産を残すのか、情熱を燃やして、完全燃焼して、その生き方そのものを「法」として残すのか?、とちらかです。どちらも素晴らしいです。しかし、時代の要請というものがあるのですね。谷口雅春の時代、高橋信次の時代、といった感じで、それぞれの時代には、それぞれのテーマがあって、それに応じた伝道のやり方があるのです。 今、求められているのは新文明の原理となる「法」です。今後2000年、3000年通用するような新文明の価値基準を打ち立てなければならないのです。今後、「文証」の基準となっていく「法」が求められている。要するに、膨大な「仏典」にかわる巨大な「法」体系が求められているのです。だから、今の時代はお釈迦様タイプの伝道方法で行くべきだということです。みだりに敵を造らずに、静かに静かに遠くまで進むというやり方です。そして、「法」をある程度降ろして、体系化して、一段落したら、今度は情熱的に広めていく段階が来る。それまでは、焦ってはならないのですね。基礎を固めるまでは、静かに静かに深く深くです。ここをキッチリやらずに、勢いにまかせて打って出てしまうと、取り返しのつかないようなことになってしまう場合があるのです。 個人的な意見ですが、「幸福の科学」は、この基礎固めの段階を軽く見すぎたのではないかと思います。ここがきっちりできていなかった。中途半端な学びで、「慢心」してしまった。また、一刻も早く広めたい、世の中に打って出たいという「焦り」の心があった。あと、大川先生には、高級霊に対するジェラシーがあったのではないかと感じます。こうした、「慢心」とか、「焦り」とか、「嫉妬」などで、足下をすくわれたのではないかと思うのです。1986年に発足して、1990年に大伝道を開始しました。わずか三年や四年で、核になる人材を育成することができるはずがないのですね。「悟り」とは、そんなインスタントなものではないはずです。要するに、まだまだ悟っていない人たちが、悟ったと慢心して、説教を垂れていたということです。 「教祖は九次元だから絶対に間違わない」などと、彼らは信じ込んでいました。このことを見ただけでも、盲信・狂信の世界になっていたことがわかります。こうしたレベルの教団が、大伝道を開始してしまったら、結果は目に見えているのです。ただ、もし、当初降ろされていた「法」がそのままの形で残っていたならば、いつか目が覚めた時、もう一度原点の「教え」に戻って、やり直すことも可能だった。しかし、残念なことに、自分たちを改めるどころか、「法」を改めてしまった(^^;。霊言集は絶版に、根本経典「正心法語」の内容が差し換えられ、基本三部作は改訂版に・・・・・・。これでは、原点に戻ることができないのですね(^^;。原点が、いじられてしまっているのですから、もうどうしようもないです。 またまた、大幅に脱線してしまいました(^^;。 とにかく、時代は、新文明の原理となる巨大な「法」を求めているということです。だから、真理伝道は、お釈迦様や谷口先生のやり方を参考にして、極力、敵を造らないようにすること。真理以外のことで時間を無駄にしてはいけない。論争などにかまけていてはいけない。まず、「法」を降ろし、体系化すること。2000年3000年先を見据えた「法」を残すこと。そして、核となっていく弟子をじっくり養成していくこと。焦らずに、じっくり力をつけていく。大伝道はその後でよい。こうした段階を踏まずに、大伝道を始めてしまうと、足下をすくわれてしまうということであります。 後継団体について 「日蓮の霊言」が収録されていたのは1980年代前半です。この時期、天上界の日蓮聖人は、地上の日蓮宗を、どのような目で見ていたのでしょうか?日蓮聖人の「霊言」を抜粋しておきます。 善川 いま、天上界にあって、日持(にちじ)、日向(にこう)、その他かつて、日蓮聖人を師とする方々のご活動が伺われるのでありますが、これは当時「日蓮宗」を興した方々が、これからの時代に向かって、今また、大きな力を結集して、活動しようとしておられるのですか。 関係ありません。全く関係ありません。日蓮宗という宗派には、関係がないのです。光の天使たちの教えが、日本の、鎌倉時代というあの時代に、日蓮というものを中心として、現われたということです。”正法”は一つですから、日蓮宗かどうか、というようなこと、或いは、弘法大師の教えがどうか、或いは、天台智顗がどうか、そういうようなことは、問題ではないのです。たまたま、その時代、その地域において、光の指導霊が出て、光の天使たちが出て、そのような教えを広めたということです。ですから、これ以上の教えはないというわけではないのです。ですから、何百年も経った今でも、私の教えだけを信じなさいとか、そのようなことを、私たちは申しません。そのようなことは、関係がないことです。ただ、ある時代に、ある特色を持った宗教を、私たちは造り出したということであります。いまもって、日蓮宗に特に、どうこうということでは、全くありません。 (「日蓮の霊言」P133~P144)
善川 なお、重ねてお伺いしますが、こんなことをお尋ねすれば、お叱りを受けるかも知れないのですが、かねがね思っていたことなのですが、後代では、あなたが、日蓮宗という教義体系を組まれ、そして晩年身延山を下りられて、池上の池でご他界されたというふうになっておりますが、あなたがご他界後、この身延系の後継者と、大石寺系の後継者とが二派に分かれて、共に日蓮宗を称して、争ってきましたが、そして今日、また、この二派の論争がやかましくいわれておりますが、何かこの間に、当初の頃の、指導者たちの、霊指導が行われているように思われて仕方ないのですが、これらについては、全く無関係なのでしょうか――。 私は興味も、関心もありません。 善川 そうかと存じますが、しかし、いずれにしても、日向師と、日興(にっこう)の両氏が中心になって興された宗派であるので、いずれは、この両師が指導役を務めておられるのではないのですか――。 私は何も語りません。日蓮宗という教えがあるわけではないのです。仏の教えを、日蓮という人間が生きた時代に、その肉体を通して、その一端を語り、行じた、ということに過ぎないのです。その私を、二手、三手に分かれて、信じて言ってくださるのは、結構だけれども、日蓮宗と日蓮とは、何の関係もないと言っておきます。 私の思想、私の行動、私の考えは、世尊、仏の弟子としての行動であります。私はそういうつもりです。私の教えというものがあって、それが、何派にも分かれて、議論されるようなことでは困るのです。そのようなものではありません。私はなにも、新しいものは創っていません。私は、ただの行者であります。仏の教えの一部を行じたに過ぎないのです。その人間の一生を捕まえて、或いは自分が、何とか宗だ、何とか宗だ、何とか山系だと言って、争ってくれるのは結構だけれども、私自身が創ったものなどないのです。 私は行者です。日蓮宗と、日蓮とは、無関係であると、私はこの場ではっきり言っておきます。 (「日蓮の霊言」P135~P136)
今の日蓮宗が正しいか、正しくないかというようなことは、あなた方にとっては、もう関係がないことです。あなた方は、彼らの正邪を批判する立場にもなければ、そのようなことをしている時間もないのです。無駄なことです。彼らと争うために、あなた方は新しい道を拓いていこうとしているのではないのです。いいのです。ほっておきなさい――。 あなたがたに、言っておきますが、正しきもの、真に正しきもの、真に良きものは、必ず人から人へ伝わっていくものだということを、信ずることです。自分たちが、あまりにも伝道しよう、広めようと焦ると、いろいろの無理が出てきます。本当にいいものであるなら、やがて伝わっていくものです。それを信ずることです。 (「日蓮の霊言」P136~P137)
まあ、こういうものだと思います。己の後継団体だからといって特別視しない。要は、その団体の一人一人が「正法」を学び、実践しているかどうかであります。そうであるならば、光の指導霊の霊的指導を受けることができるだろう。そうでないのならば、いくら、立派な名前を冠した組織に属する人であっても、天上界からの指導を受けることはできないということです。全く当然のことです。
後継者争いなど全く無意味だということですね。なぜなら、後継者になれば、真理を体得できて、良い教えを説けるようになる、というようなものではないからです。本来は、その「教え」の真髄を、他の誰よりも深く体得した者が、「法の継承者」として、師より指名されるものであります。自分免許で、勝手に後継者を名乗ってはならない。また、世襲制でもないということです。父親が教祖だから、その息子が自動的に、継承者となるような団体は、根本的に考え方が間違っているのです。「法」というものは、悟りたる者から悟りたる者へと受け継がれていくもの、頂から頂へと引き継がれていくものなのです。血縁関係ではない。いくら息子でも、100%悟るとは限らないのです。悟ってもいない段階で、「法」の継承者として認めてはならないのです。
日蓮宗のことは、よく知りませんが、「霊言」では、「私は行者です。日蓮宗と、日蓮とは、無関係であると、私はこの場ではっきり言っておきます」と、言い切っております。これはどういうことかというと、日蓮聖人は自分自身を「教祖」だとは思っていなかったということです。一宗一派を興したつもりはない、ということ。あくまでも、釈迦の弟子の一人だと考えていたということ。ま、釈迦仏教の「中興の祖」の一人だといった感じです。それなのに、お弟子さんたちは、日蓮聖人をお釈迦様以上の「神様仏様」にしてしまったのですね。そして、一つの宗教を興してしまった。それは、日蓮聖人の本意ではないということです。
時の流れの中で、次第に歪められきた仏法を、もう一度、原点に引き戻す、本来の姿に戻していく。これが日蓮聖人のやっていたことだったのではないかと思うのです。日蓮聖人自身が、頭の中で編み出したオリジナルの「教え」を説こうとしていたわけでもないし、新しい教団を造って、勢力を広げて、有名になって、ちやほやされたかったわけでもない。「法」の本来の姿をつかみ、それを「実践」すること、そして、「法」そのものを伝えること、これが日蓮聖人にとっての主眼だったと思うのです。
ところが、お弟子さんたちは、その気持ちを汲み取ることもしないで、教団の勢力拡大に奔走したり、後継者争いに明け暮れた。だから、「そんな組織など、関係ない」と切り捨てているのだと思います。やはり、本音を言えば、「この日蓮を奉ずるのであるならば、日蓮宗を名乗るのであるならば、もっとしっかりして欲しい」と思っていると思うのですね(^^;。決して見捨てているわけではないと思う。でも、「波長同通の法則」というものがあって、「指導したくても、指導できる状態ではない」、ということを暗に仄めかしているのではないかと思われるのです。
さて、「我は神なり。我を信ぜよ。我がもとに集い来よ。この教えでなければ救われない。この組織に入らないと地獄に堕ちる」といった感じで伝道しているところがケッコーたくさんありますが、そんなのは何も分かっていないのですね。分かり易く言うと、天上界には、たった一つの「正法」があるだけです。それ以外の正しい教えなど、どこにも存在していない。そして、その一つの「正法」を、イエス様はイエス様の、お釈迦様はお釈迦様の、モーセはモーセの個性を通して、地上の人々に伝えたということなのです。するとどうなるか。例えば、「ハムレット」という本を、三人の人が読んで、それぞれがその本の内容を、誰かに伝えるとする。果たして、彼らの言葉が、完全に一致するでしょうか?するわけがないのです。同じ本を読んでも、それを噛み砕いて伝えようとすると、三人とも微妙に違ったことを言う。モーセの教えとお釈迦様の教えとイエス様の教えが、同じ一つの「正法」を伝えたものであっても、違うもののように見えるのはそのためであります。
また、指導者の個性だけが原因ではない。やはり、時代と地域と人々のレベルによって、教えの内容が制約を受けてしまうのです。「真理」というものは、単純な段階から、究極の真理まで、段階的に悟っていくものです。「真理は、単純にして明快なり」ということばかりを主張する人もいますが、その考えは、「真理」の一面だけを見ているに過ぎないのです。まさしく、「ホレイショー、天と地の間にはお前の哲学では思いも寄らない出来事が随分あるぞ(byハムレット)」でありまして(^^;、「真理」は非常に奥深いものなのです。だから、人それぞれに、理解のレベルというものがあるのですね。「真理」を深く知っている人、皮相的に解釈している人、何も分かっていない人など、人それぞれです。また、「真理」を深く体得している人が多数存在している平和な国もあれば、年中殺し合いばかりしているような国もある。だから、「真理」を伝えるといっても、相手のレベルによって、説き方を変えていかなければならないのです。
たとえば、野蛮国で伝道するときに、難しい哲学を説いても、誰も救われない。そういう場所ではイエス様であっても、ABCから順を追って説明していく。イエス様は、XYZまで悟っているけれど、そうした場所で伝道する時は、XYZに関しては、説くことができないのですね。相手に合わせて、ABCまで説いて、そこで終わってしまうかも知れません。ところが、そういう事情を知らない後世の人々は、「イエスは、ABCまでしか説いていない、だから、イエスの悟りは低かった」などと愚かなことを言うのです。あるいは、「イエス様の教えはABCだ。だから、真理は単純明快なものなのだ」と決め付けてしまったりする。そうではない。「真理」は、簡単なABCの段階から始まって、難しいXYZまである。実は、XYZでは終わらない。もっともっと深遠な「真理」が隠されている。「真理」とは、そうしたものです。
ともかく、そのように、相手のレベルに合わせて説くから、原始時代の「正法」と、現代のような時代の「正法」は、一見、別物に見えてしまうのです。しかし、根っこは同じものなのです。要するに、「正法」は一つだけど、その現れ方は、非常にバラエティに富んでいるということです。指導者の個性、指導される側のレベルによって、無数の説き方がある。だから、枝葉末節で判断してはならない。根っこを見なければならない。根っこが同じなら、同じ教えなのです。釈迦、モーセ、イエス、マホメットというのは、天上界では、仲間なのですね。根っこが同じなのです。だから、仏教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などは、本当のことを言えば、同じ教えなのです。本当は、みんな、仲良くしなければならないのですね。ところが、こういう真実が分からないから、枝葉末節の違いに幻惑されて、互いに相手のことを、「悪魔」だと罵り合っているのです。
だから、「この団体だけが、天上界の指導を受けていて、この最後の砦が崩れたら、人類は終わりだ」なんてことをいって伝道している団体は、何も分かっていないということです。前にも触れましたが、「花一輪で花壇はできません」ということを忘れてはならないのです。時代の変革期には、美しい花があちらこちらに咲き乱れて、新しい時代の空気を造り上げていくものなのです。一つの団体だけが、その時代を引っ張っていくと思っているのなら、大きな勘違いです。はなはだしき思い上がりであります。その団体だけが大輪の花ではない。その教祖だけが神の使者なのではない。立派な人がたくさん生まれ変わってきて、それぞれの活躍が合流して、やがて大きな流れになって行くのであります。
自分たちだけを「選ばれし者」だと勘違いしてはならない。そういうのは、他人を見下した発想です。鼻持ちならないエリート意識です。上から人を見下して、「反省せよ」だの、「愛しなさい、許しなさい」などと説教を垂れても、誰も素直に受け止めることはできないもの。人間の感情はそういうふうになっているのです。いくら正論をぶったところで、相手の感情に働きかけることができなかったら、何にもならない。「我は神の使者なり。迷える子羊どもよ、愚かなるお前たちに、今より、選ばれし者である我が、有り難き教えを説いて進ぜよう。心して聞け」(^^;。宗教を長くやっている人の中には、時々、こうした非常に尊大な態度で、説教をする人がいます。少なくとも私は、「救われなくてもケッコーです。あんたの話なんか、絶対に聞いてやるもんか」と思ってしまいますね(^^;。
ま、そういうことで、くだらない選民意識、エリート意識は捨てることだと思います。神の花壇を彩る一輪の花だという気持ちが大切だと思います。その花が最も大きな花だったとしても、エリート意識で、他を見下していたならば、見下された花々たちは、嫌になってしまって、別のところに逃げて、そこに新しい花壇を造るだろう。大輪の花一輪がポツンと取り残された花壇と新しくできた花壇、一体どちらが美しいだろうか。大輪の花は無いかも知れないけれど、色とりどりの花々が、和気藹々と、咲き乱れている花壇のほうが絶対に美しいのですね。これからの伝道も同じことだと思う。己の組織の勢力を拡大するために伝道するのではないのです。「正法」を広めるための伝道ではないでしょうか?
ならば、組織の名前とか、関係ない。「正法」を広めている組織は、みんな仲間であって、協力し合うのが本当なのですね。でないと、美しい花壇ができない。「我のみ尊し」的な態度を取るようなことでは、本物とは言い難いのです。また、邪教団なども存在しますが、そういうのを、どうこうしようと思わないことです。己自身がまだまだ立派でもないのに、他人の悪いとこばかりを批判しても、何も始まらない。まず、己を磨くことに専念する。そして、「正法」の仲間たちの対立をなくしていく。私欲を去って、大同団結していく。「正法」の花壇を、色とりどりの花が咲き乱れる美しい花壇にしていく。そういう努力を地道に続けていく過程で、人々の目にも、どの団体が「正法」の団体で、どの団体が邪教団なのか、はっきり見えてくるような状態になってくるはずです。そうなってくれば、邪教団に誘惑される人も、どんどん減っていくのではないかと思うのです。
宗教と政治について
善川 宗教団体でも、政治に関与している団体がいくつかありますが、これらは精神革命への、大きな支柱となりましょうか。
私たちは、政治団体については、何の関心もありません。また興味も持っておりません。正法に則った政治が実現されるかどうかということは、私たちは関心があります。しかしながら、現時点のどの政党がどうなるか、発展するか、没落するか、どうなるか、そのようなことは関心がないのです。また、どの政党がどのようなスローガン、キャッチフレーズをたて、唱えていようとも、関係ないことです。党派も関係ないことです。
善川 しかしながら、現在の各党派が、それぞれの主義、主張を持って、精力的に活動していることについては、良かれ、悪しかれ、それは、それだけの意味があってのことではないでしょうか――。
それはそうです。この地上界において、無駄なものなど、何もありません。すべて役割がありますからね。
(「日蓮の霊言」P137~P138) 何事にも順序があるということです。儒教の言葉に、「修身・斉家(せいか)・治国・平天下」という言葉があります。これは、天下を治めるためには、まず、国を治めなければならない。国を治めるためには、その国の各家庭が調和されていなければならない。調和ある家庭にするためには、家庭の一人一人の「心」と「行い」が正しいものでなければならない。人々の心が不正を好み、不正な行いを好むならば、各家庭が調和されることはないだろう。国中の各家庭が不調和ならば、その国は、良く治まっているとは言えないだろう。そんな国が、天下を平定することができるはずがない・・・・・・、ということなのであります。
憲法や法律を変えても、世の中が良くなるとは限らないのです。革命を起こして、資本主義体制を共産主義体制に変えてみても、ユートピアは来なかった。なぜなら、人々の「心」と「行い」が改革されていなかったからです。「共産主義」というのは、本当はユートピア社会の一つの形なのです。原始キリスト教の共同体は共産体制だったのです。
しかし、20世紀、全世界で猛威をふるった「共産主義」勢力の裏の顔は、一党独裁の恐怖政治でした。反対者は「粛清」と称して、処刑してしまうのですね。共産主義体制にかわった国は、100%、そうなってしまったのです。正確な数は分かりませんが、共産主義体制の下で、処刑された人の数は、何千万人単位だということです。だから、私たちは、とにかく「共産主義」というのは恐ろしいものだ、間違った考え方だ、と思ってしまう。しかし、本当はそうではない。イエス様の「共産主義」では、20世紀の「共産主義」のような「血の粛清」などは行われなかったのです。なぜ、同じ「共産体制」なのに、こうも違うのか? 一方は「恐怖政治」となり、もう一方は「神の国」の原型となった。なぜか?
これが、要するに「修身・斉家・治国・平天下」だということです。イエス様の「共産主義」、まず、「修身」から入っているのです。まず、各人が、自らの「心」と「行い」を正しくする。まず「自己確立」から入った。そして、「修身」の指針となったのがイエス様の「教え」、すなわち「正法」だったのです。「正法」とは、大自然の教え、「神の教え」であります。つまり、イエス様の「共産主義」の根本は「神様」にあったということなのです。ところが、20世紀の「共産主義」は、唯物思想だったのすね。無神論であります。根本に「神様」が無かった。ここが分かれ目となっていると思われるのです。
だから、宗教団体が「政治改革」に乗り出すのは、ある意味、当然の流れだといえるのです。本当の政治には、根本に「正法」の精神が必要なのです。それがないから、資本主義であろうが、共産主義であろうが、うまく行くはずがないと、私は思います。日蓮聖人が「霊言」で、次のように言っているのは、そういうこと言いたいのだと思います。
正法に則った政治が実現されるかどうかということは、私たちは関心があります。(日蓮の霊言) ただ問題は、宗教家と政治家の「心の在り方」であります。宗教家が、「世直し」と称して政治に関わることで、支配欲・権力欲・名誉欲を満たそうとしているのではないか。政治家が、「党利党略」だけのために、宗教組織を利用しようとしているのではないか。こういう、「正法」と関係のないところで、利害が一致して、宗教と政治が結びつくと、ろくなことがないのです。
「正法」に則った政治が実現されるためには、それなりの土壌が必要だと思います。国民一人一人の心の中に「正法」が、しっかりと根付く必要があると思うのです。まあ、いきなり全員に広めるは無理です。だから、一人ずつ一人ずつ輪を広げていく。これは、宗教組織の会員数を増やすということではありません。極端なことを言えば、会員なんか無くてもいい。ただ「正法」だけが人々の間に広まって行けば、それでいいのであります。
ちなみに、「正法」の輪が、ある一定の大きさを超えてくると、「化学変化」のような作用が起こって、爆発的に広がることがあります。ブームというヤツです。しかし、ここで調子に乗ってはならない。こうしたブームは、すぐに去っていくものです。調子に乗って、大きな事務所を構えてみたり、色々な場に顔を出し始めたり、テレビに出演してみたり・・・、こういうことをやり始めると、おかしくなっていく。だから、もしブームが来ても、調子に乗らない。ブームで「正法」が広がったように見えても、それは単なる烏合の衆です。ブームが去れば、彼らも去っていく。
だから、指導者は、100人の烏合の衆を求めるより、核になる一人を養成することです。また、「正法」に目覚めた人は、自分自身が核になれるように、「学び」と「実践」を怠らないことです。このようにして、土台を固めながら、堅実に発展していくことが大切なのです。こうして広がった「正法」の輪の中から、やがて、心に「正法」の精神を刻み込んだ政治家たちが現れてくるのです。それまでには、20年、30年、50年かかるのですね。今の政治家が、一年、二年、「正法」を学んで、それを、政治に活かそうとしても、そんなものは付け焼き刃に過ぎません。しかし、「正法」の生活を10年、20年続けたような人は、本物であります。そうした人が、政治家として立ち上がれば、必ず、正法に則った政治を行ってくれるに違いないのです。
今は、その準備期間なのですね。今は、まず「正法」を学び、実践することを重視する「自己確立」時代であります。地道に「正法」の輪を広げていく時代です。こうした期間が最低でも10年20年必要です。この期間に「核」になる人々が育ってくる。また、そうした人々の子供たちも、親の後ろ姿を見て、「正法」の精神を学びます。こういう感じで、多くの人々の心に「正法」がしっかりと根付くまでは、本当の意味での「政治改革」は期待できないのです。法律をいじってもダメなのです。共産主義体制に変えてみてもダメなのです。まず、土壌として、人々の心に「正法」が根付くこと。そうした土壌から、やがて、「正法」精神の政治家が現れてくることでしょう。
ただ、今の日本を見れば分かるように、まだまだ人々の心に「正法」は根付いていない。創価学会の信者さんは、一千万人いると言われています。それならば、確率的に、日本人の10人に一人は「正法」という言葉を知っているはずです。しかし、実際は、ほとんどの人が、「ショウホウ???、なんですか、それ?」って感じではないでしょうか。組織の人数は多いのかも知れないが、肝心の「正法」が広まっていないのですね。そんな、状況で政治と関わると、ろくなことがないのです。「宗教が政治を改革していく」という方向性は正しいのですが、段階を踏んでいないということなのです。
日蓮聖人は「霊言」で、「政治団体には、関心もなければ、興味もない」と言ったのは、そういうことなのです。「今は、その段階ではないだろう!?」ということです。物事には順序がある。今は、まず「正法」を人々の心に浸透させていく段階ではないのか、ということだと思うのであります。
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