9.『高橋信次霊言集』を読む⑨ :: 2006/11/19(Sun) |
20061119 00210 9.『高橋信次霊言集』を読む⑨
五章 足ることを知る より(下)
善意なる第三者の立場で己の心を見つめ直せ
この部分を、一言で言うならば、「独りよがりになるな!」ということでしょうね。色んな人の立場を知り、そうした目で、自分自身を見つめ直すことが大切だということ。そして、そのためには、世間を知る必要があるのですね。色んな人々と接して、色んな経験を積むことによって、色んな視点を持つことができるのです。自分だけの見方が正しいなんて思うのは、大きな間違いなのです。色んな見方があるのです。まず、それを知ることです。
こういうことをいうと、「目を外に向けてはいけない。目を内に向けよ。答えは内にある」という教えに反する考え方だという人もいるでしょう。しかし、そういうのは屁理屈なのですね。やはり、この世に生まれて来た限りは、この世で何かを経験する為なのです。ただ、心の内側ばかり見つめるだけなら、この世に生まれてくる必要などないのです。それだけならば、あの世でできることなのであります。
この地上世界は、様々な霊格を持った人々が交流することができる唯一の場なのであります。交流することで相互に磨き合うことができるのです。芋洗い方式です。色んな大きさ、色んな形の里芋を、一つの桶にぶち込んで、棒でかき回し、ゴシゴシやっているのと同じなのです。あの世は、「類は類をもって集まり、類でないものは反発し合う」法則によって、多次元世界となっています。霊格によって層ができているのです。だから、通常、六次元界の住人と八次元界の住人が、直接交流することはないのです。
要するに、あの世では、同じレベルの人々と暮らしているのですね。そういう状態では、磨き合うことが難しいのです。相手が自分と似たり寄ったりの考え方をしていると、その相手から、あまり学ぶものがないのですね。ところが、地上世界というのは、四次元霊界のレベルから九次元宇宙界のレベルの人々まで、ごちゃ混ぜになっています。また、地獄界の影響を受けて、地獄的に生きている人もごちゃ混ぜになっています。これは、多次元宇宙の中でも特殊な世界なのです。非常に学習効果が高いのです。
たとえば、六次元界の人と四次元界の人が交流しているとします。四次元界の人は、六次元界の人にたくさんのことを学ぶことができるでしょう。しかし、六次元界の人は、四次元界の人から学ぶことがないのではないか、と思うでしょう。しかし、そうではない。六次元界の人は、四次元界の人を正しく導く使命があるのです。指導者として、人を導いていく・・・・・・、この過程で、非常に多くのことを学ばされることになるのです。あの世で、同じレベルの気心の知れた仲間と楽しくやっているだけでは、決して学ぶことのできないことを、この地上において、私たちは学んでいるのです。
だから、せっかくこの世に生まれてきた限りは、色んな人々と交流して、色んな経験を積みなさい、ということを霊言では語られているのだと思うのです。決して、外側に答えを求めよとか、そういうことをいっているわけではないのですね。色んな体験を通して、本当の自分自身を求めて行きなさいということだと思うのです。現代社会の成人男性は、サラリーマンが大半ですが、そうした生活にどっぷり浸かっていると、非常に世間が狭くなって行く場合があります。私も、振り返ると、「ああ、失敗したな」と思います。非常に世間知らずで、経験に乏しいです(^^;。これでは、この世に生まれてきた甲斐がないのですね。あの世に帰ったら、もう会うことができないような素晴らしい人々が、同時代に何人も出てきているのに、そうした人々と交流することができなかった。非常にもったいないことをしたと思います。
やはり、せっかく、こうしたチャンスに恵まれているのだから、私たちは、自分よりも立派な人と、どんどん交流して行くべきだと思うのです。そうすることで、独りよがりの考え方から脱却して行くことができるのではないでしょうか。自分だけの世界の中で「ああだこうだ」と考え込んでみても、堂々巡りするだけなのです。色々経験して、色々学んで、そして、色んな見方ができるようになって行くだと思います。
自分を真に客観視できる人は、劣等感や優越感から解放される
たいていの人は、自分を冷静に客観視できない。過大評価か過小評価の両極端にブレて行く。そうした両極端は、本当の自分ではないのです。本当の自分はダイヤモンド、磨けば光り輝くダイヤモンドなのです。だから、自己卑下してはいけないのです。神様がダイヤモンドとして創造してくれた自分の生命を、つまらないものだと勘違いしては、神様に申し訳ないのです。また、本当の自分自身にも申し訳ないのです。
といって、本当のダイヤモンドの姿を現していない現状の姿を、過大評価してもいけないのです。ダイヤモンドの自分に関しては、どれだけ高い評価を与えても、与え過ぎるということはないのですが、偽我の自分を過大評価して、驕り高ぶるのは、非常に見苦しいことです。そういうのは、本当の自信とは言えないのです。病気になったり、失恋したりすると、アッという間にペチャンコにつぶれてしまう偽りの自信であります。
また、自分の本質が誰にも負けないダイヤモンドであるならば、他の人の本質も、誰にも負けないダイヤモンドであるということに気づかなければなりません。これが分かると、他と比較して、劣等感を感じたり、優越感に浸ったりすることが、如何に間違った心であるかということが、ハッキリしてくるのであります。自分も「神の子」ならば、他の人も「神の子」なのです。他の人が、どれほど輝いて見えたとしても、自分の内側にも、それに負けないぐらいの光が秘められているのです。
要するに、自分を客観視するというのは、本質であるダイヤモンドの自分と偽我の自分の両方を客観的に見るということなのです。本当の自分と偽りの自分をハッキリ見分けるということです。これができるようになるためには、やはり、色んな物の見方ができなければ無理なのです。多角的に見る。複眼的に見る。これができないとなかなか本当の自分というものが見えてこない。
たとえば、全財産が100万円だとする。これは、「お金持ち」なのか、「貧乏」なのか、どう見るか。たとえば、全財産が10円の人から見れば、「お金持ち」に見えるかも知れない。億万長者から見れば「貧乏」かも知れない。百年前の話しなら、「お金持ち」と言えるだろうが、現在の話しならば、「貧乏」だと言えよう・・・。このように、視点によって、「貧乏」にも、「お金持ち」にも、見えるのです。ところが、一つの視点でしか見ることができない人は、自分は「貧乏」だと嘆き悲しんだり、自分は「金持ち」だと勘違いして、調子に乗ってしまったりする。
しかし、多角的に見ることができるようになると、「全財産は100万円」だと冷静に見ることができるようになってくるのです。大金持ちと比べれば、貧乏だろう。しかし、世の中には、餓死する人々も大勢いるのだ。それを思うと、「自分は恵まれているな」と感謝の気持ちが湧いてくるものです。このように、色んな物の見方ができると、自己卑下や慢心から、自分自身を解放することができるのであります。これが客観視するということです。
客観視で大切なのは、悲観的な見方になってはいけないということです。たいていの場合、人間というのは悲観的に見る傾向にあります。「どうせ、うまく行くはずがないんだから」、こういう気持ちがあるんですね。そう思っておいた方が、後で悪いことが起こってきても、その時に受けるショックが少なくなるからというわけです(^^;。これも一つの考え方なのですが、何でもかんでも、悲観的に見てしまってはいけないのです。やはり、楽観的に見るほうが、色んな面で良いのです。
人間は、悲観的、楽観的、どちらの見方でも選択することができるのです。一本の道を歩んでいるとします。左手は大自然の素晴らしい景色です。海あり山あり川あり湖あり草原あり・・・。しかし右手は地獄のような陰惨な風景です。汚染されてしまった死の大地です。左手も右手もどちらも現実です。その境目の道を旅しなければならないのだとすれば、さて、どちらを見ながら歩いてゆくでしょうか。わざわざ、気の滅入るような右手の風景を見ながら旅するでしょうか。そんなことをしても何のプラスにもならないのですね。
やはり、左手の天国的な風景を楽しみながら、ゆったりとした気持ちで旅する方が良いに決まっているのです。右手に地獄的な風景が展開していることは分かっている。しかし、そこから目を背けて、天国的な風景を見ることが、現実逃避なのでしょうか?逃避でも何でもないのです。人間は、どちらかを自分で選択することができるというだけのことなのです。どちらを選ぶかは、本人の意思です。しかし、わざわざ、気分が滅入るほうを選択して、そして「苦しい。人生は苦しみに満ちている」と嘆く必要はないのです。左を見て、「ああ、でも左側はこんなに素晴らしい!私は左側を見ながら旅しよう」、と決めて、美しい風景を選ぶことができるのです。
悲観的な見方と楽観的な見方も同じことなのです。自分自身で決めることができるのです。なぜ、楽観的な見方を選ばないのでしょうか?最悪の事態を想定することも大切です。それも必要なことでしょう。しかし、最悪の事態ばかりにとらわれる必要はないのです。そうなる確率が最も低いから「最悪の事態」というのです。滅多に起こることではないのです。それなのに、きっとそうなるに違いないと思って、それが起こる前から嘆き悲しんでいるなんて、どこかおかしい。それならば、もっと楽観的に見て、開き直ったほうが、精神衛生的に見ても良いのですね。五分五分の確率ならば、絶対に楽観的な見方をしたほうが良いです。
「取り越し苦労」というのは、精神エネルギーを奪い取る吸血鬼なのです。どんどんエネルギーを奪われてしまうのです。逆に楽観的な考え方はリラックスを生み、笑顔を生み出します。笑う門には福来るであります。明るい考え方、楽観的な考え方、笑い、幸福、喜び・・・・・・。これらは「類」であります。「類は類を持って集まる」という法則があるのです。悲観的な想念は、悲劇を呼び寄せ、楽観的な想念は、幸福を呼び寄せる、これは、法則なのです。だから、私たちは、自分自身を客観的に見るときも、ある程度、楽観的な物の見方が大切となってくるのです。
善我は善我、偽我は偽我としてハッキリ見分けなければなりませんが、偽我は本来の自分自身ではないのですから、あまりにも深刻に捉える必要はないのです。やはり、善我のほうを重視して、「我、神の子なり」の自覚を深めていくほうが、絶対によいのであります。善我を重視して見る、それが楽観的に見るということです。非常に大切なことなのです。
人身うけ難く、正法にあい難し
人間に生まれて来たということ自体が、大きな幸せかもしれないという視点。これは盲点であります。あるいは五体満足であることの幸せ、目が見え、耳が聞こえ、語ることができることの幸せ、こうした幸せを、私たちは思い出す必要があるのです。人間に生まれて来たこと、五体満足であること、決して当たり前のことではないのですね。これだけでも、本当は大感謝しなければならないことだと思うのです。
また、「正法」に出会うことができたこと。これも、本当に幸せなことです。人間というのは、ある程度、心の浄化をしないことには、心の内側だけ見ていても、本当のことは分からないのです。薄汚れたままの心、これを自分自身の本当の姿だと思い込んでいる人もいるのですね。確かに、心の内側に神様がいるのでしょうが、たった一人の力で、それに気づくことができる人というのはいないのです。お釈迦様なんかも、「無師独悟」と言いながら、実際は「我以外みな我が師」の精神で「悟り」を求めてきたのです。「宝(たから)」は「他から(たから)」来る。だから「宝(たから)」と言うのだそうです(^^;。ま、駄洒落のようで、実際本当のことなんですね。
やはり、最初は何らかの「導き」が必要なのです。私たちは、師や友や書物などを通して、「正法」に出会うのです。そして、それがきっかけになって、心の内側に目が向くことになるのです。南海の孤島で一人暮らしているならば、「正法」に出会うこともないでしょう。そして、「正法」に出会うことなく、偉大な「悟り」に到達することは、本当に至難の業だと思います。こうした「宝物」である「正法」に巡り会えたこと、これは本当に幸せなことなのであります。しかし、そのことに気づくこともなく、自分の浅知恵を誇り、「正法」に難癖をつけて、偉大な指導者たちをボロクソに批判して、自分こそ最高の智者であるかの如く錯覚しているような人々が大勢いるのです。
あまり、そういうことばかりやっていると、「正法」に帰ることができなくなってくるのですね。批判してしまうと、途中で、その方向に、慣性の法則が働くので、内心、「良いこと言ってるな」と思うときがあっても、褒めることができなくなってしまうのです。たとえば、Aという歌手がキライだとします。ある時、ラジオから、すごく素敵な曲が流れる。で、「これは良い曲だな。誰の曲かな?」と思う。そして、曲が終了して、Aの曲だと紹介があったとする。さて、どうでしょうか。おそらく、良い曲だと思ってしまった自分を恥ずかしく思い、「やっぱり、たいした曲でもないな」と考えを変更するのではないでしょうか?
人間には、そうした心理が働くようです。批判している相手を認めるのは、何だか自分が負けを認めたような感じがして、プライドが許さないのです。でも、心の底では、「良い曲」だなと思っているのです。偽我の心が生まれてしまうのですね。ま、そうした感じで、偽我がどんどん膨らんで、とうとう、「正法」と決別してしまうようなことになってしまうのです。これは非常に残念なことです。だから、「批判」というものは、本当に慎重にしなければならないと思います。
脱線しました(^^;。とにかく、「人身うけ難く、正法にあい難し」(注1)と申します。ところが、私たちは、人間として生まれ、そして「正法」に出会うことができたのです。この意味が本当に分かっている人は、決して自分のことを「不幸だ」などとは言わないはずであります。本当は、これだけでも大いに感謝しなければならないことなのです。猿やイノシシに生まれていたら、高橋信次先生の本を読むことができなかったのです(^^;。また、人間に生まれても、「正法」に巡り会えない人も大勢いるのです。出会っても気づかない人、批判して決別して行く人、様々です。
人身をうけ、正法に出会い、それが正法だと分かったということ、これがどれ程、素晴らしいことであるかということを、もう一度よく考えてみることだと思います。この意味が分かれば、「足ることを知る」という意味も、自ずから見えてくると思います。
二者択一問題です。
感謝すること、それが「足ることを知る」につながる
結局は「感謝」ということです。今すでに、与えられているものに「感謝」できるかどうか。本当にできるという人は、もう既に、「足ることを知る」ことの意味を知っているということです。「感謝」できないという人は、「感謝」できる気持ちになるまで、本当の意味での「足ることを知る」ということを知ることはできないということです。
「貧乏な家に生まれた」とか、そうしたことに対して愚痴を言いたくなる気持ちは分かるけれど、そんなことばかり言っていても、何も始まらないのですね。貧乏の家に生まれても、成功した人は幾らでもいます。金持ちの家に生まれて、ダメになった人も幾らでもいます。幸・不幸の本当の原因は、生まれ育った環境や境遇じゃないってことです。各人の心の状態にあるのです。各人の心には選択の自由があるのです。何を選択していくかで、幸・不幸が分かれてくるのです。
だから、貧乏の家に生まれても幸せになって行く人もいれば、金持ちに生まれて不幸になって行く人も出てくるのです。もし、環境・境遇で決まってしまうのなら、努力など無意味なのです。努力によって道が開けてくるということは、すべての人間に、無限の可能性が与えられているということなのです。
あるいは、人間は、時間のもとに平等だと言われています。どんな金持ちも、どんな貧乏人も、一日の持ち時間は24時間です。赤ちゃんもおばあちゃんも、24時間です。23時間の人や25時間の人は、いまだかつてなかったのです。この一日の24時間をどう使っていくかで、道が分かれて行くのです。
このように、人間は可能性と時間においては平等なのです。これは大いに感謝すべきことなのです。これが、不平等ならば、神様に文句の一つも言ってやればよいでしょう。しかし、よくよく考えてみれば、平等なのです。金持ちに生まれることは、必ずしも有利ではないのです。貧乏人に生まれることが、必ずしも不利ではない。この世とあの世という永遠の視点で見るならば、地上での境遇や環境というのは、各人の魂修行にとって、最も適切なものなのです。だから、不平不満ばかり言っていないで、「感謝」するということについてもっともっと考えてみる必要があるのです。
「感謝」を忘れている人は、まず、意識して、感謝すべきことを見出していかなければ、恐らく、「感謝」の心を思い出すことができないでしょう。たとえば、「目が見えること」、これだけを考えてみても、私たちは大いなる感謝を捧げなければならないと思います。耳が聞こえること、どこも痛くないこと、こうした当たり前のことが、本当は「感謝」しなければならないことなのです。ところが、それをまったく忘れていますから、私たちは、意識して「感謝」のタネを見出していかなければならないと思うのです。当たり前と思っていることが、実は、当たり前じゃないんですね。それを思い出す必要があるのです。
そして、「感謝」に対する感覚が強まってくると、だんだん神様の無条件の愛というものが分かってくると思うのです。私たちは、神様の無条件の愛と慈悲の中で生かされている。このことが分かって来ると、おそらく、意識的に「感謝」するまでもなく、あらゆることに対して、自然に「感謝」の思いがあふれ出てくるようになると思います。
それか、思いっきり頭を打つかですね(^^;。大病を患うとか、倒産するとか、大失恋するとか、こうした大きな苦しみにぶち当たって、人の情けを知って、ようやく「感謝」とは何かということが分かって来ると思います。そして「感謝」が分かってくると、「足ることを知る」ということも分かってくるということなのです。実は、日常生活の中で意識しながら感謝することは、意外に難しい。しかし、病気などをすると、自分の弱さを知り、人の情けのあたたかさが身に染みて、「感謝」ということを思い知らされるのです。それが、心豊かな人間へと生まれ変わるきっかけとなることが多いのです。
有名人の体験談などを聞くと、臨死体験をしたとか、戦場で九死に一生を得たとか、大病を患ったとか、大失恋したとか、会社が倒産して家族が離散してしまったとか、とんでもない体験がきっかけで生まれ変わってしまったという話しが多いです。これは、そうした体験を通して、「感謝」ということを学んだということだと思うのです。大きな苦しみにぶち当たったほうが、深く学ぶことができるということでしょうね・・・・・・。
とにかく、だから、「感謝」ということが非常に大切だと思います。「感謝」できる人は、「謙虚」を知っているし、「足ることを知る」意味も分かるし、「与える愛」ということも分かると思うのです。これらは「類」ですね。でも、地上の人間にとっての出発点は「感謝」ではないかなと思います。「有り難い」「ありがとう」という気持ち、これを本当に知ることが、すべての出発点だと思うのであります。
コメント (1 件)
大和 春道 - 2007年 4 月 13 日 ここから↓は、 『高橋信次霊言集』を読む その50 のコメントです。
大和 春道 2006年11月11日 18:39
さらん(‾???) 2006年11月11日 12:35
ここから↓は、 『高橋信次霊言集』を読む その48 のコメントです。
大和 春道 2006年11月10日 18:26
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大地を枕に-元気ですか? 僕は元気です。- |
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Author:大和春道 |
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