5.多重構造について :: 2005/09/18(Sun) |
20050918 00016 5.多重構造について
多次元宇宙の章で、宇宙の多重構造を説明しました。ここでは、多次元宇宙と人間との関係を考えてみたいと思います。一言で言うなら「人間の肉体は、三次元宇宙の小さな一点に過ぎないけれど、その心の内には、多次元宇宙のすべてが内包されている」ということになります。非常に矛盾している表現ですね(^^;。
言葉での表現には限界があるので、イメージでとらえて下さい。よく、「心の内なる神」と言います。また「神はすべてのすべてなり」とも言います。私たちの心の内側に神が存在するのなら、神は何と小さな存在でしょうか? 逆に神がすべてのすべてであるのなら、神は何と巨大なのでしょう。
神理をある程度学んできたかたならば、「神は我が心の内側に存在し、かつ、神の内側にすべてが存在している」という矛盾した表現が、そう間違った表現ではないことを、ある程度理解していただけると思うのです。
ところが、行間にこめられた言外の言葉を理解できない人たち、あるいは理解する気持ちのない人たちは、言葉尻をとらえては、「おかしい。論理的に破綻している。」と騒ぎ出します。悲しい話です。
心の多重構造
心をイメージでとらえると、同心円のような感じになると思います。まず外側が、表面意識(全意識の10%)、そして内側が潜在意識(全意識の90%)です。この世の私たちは、通常、10%の表面意識だけで生活しています。なぜ、潜在意識を活用できないのか。
これは、人間の進化を促進するための仕組みなのです。人間は、この世に生まれ出るとき、あえて全意識の90%を封印してしまうのだそうです。スポーツのトレーニングと同じことです。
たとえば、ウエイト・トレーニングなどでは、重いものを持ち上げたりします。何のためにそんな苦労をしなければならないのか?といった質問は愚問であります。筋肉を鍛えるために、あえてそうした苦労をしている。この世に生まれ出るとき、90%の意識を封印するのも、魂を鍛えるためなのです。
人間には、過去世があるのですが、この世に生きる人々には、それがわかりません。なぜなら、封印している90%の意識(※潜在意識)の中に、過去世の記憶が残されているからだそうです。表面意識と潜在意識を隔てているのが「想念帯」。この想念帯が、潜在意識を封印しているのです。
しかし、表面意識と潜在意識の交通がまったくないのかというと、そうではありません。やはり、互いに影響を与え合っている。「想念帯」の部分が、反省などで浄化されるに従って、相互の影響力も増していきます。
さて潜在意識も、同心円状の構造になっています。外側から内側に向かって、四次元、五次元、六次元、七次元、八次元、九次元といった領域に分かれているのです。これは、各人の悟りとまったく関係がありません。
地獄で呻吟している人であろうが、成績がビリの人であろうが、生まれたての赤ん坊であろうが、すべての人間の心の構造は、九次元の領域をも含んでいるのです。それどころか、さらに十次元以降の世界に通じているらしいのであります。この意味において、人間はみな平等であるといえると思います。
このように心の中にすべてが含まれているのです。それらはイメージとしてとらえた場合、同心円状になるのですが、実際は、そんな単純なものではないようです。
国境線といいますが、飛行機から地上を見下ろしても、どこにもそんな線は見えません。人間が地図に線を引っ張ってるだけです。あの世の各次元を境界線で区切ろうとするもそれと同じで、この世の人間の発想なのですね(^^;。本当は、同じ場所に同時に重なり合って存在している世界なのです。
あるいは無空間の中にすべてが存在している(※論理破綻です(^^;)といってもいいのかもしれません。この三次元世界は、物質だけの世界のように見えて、実は多次元宇宙とつながっているのです。
たとえば、テレビやラジオのチャンネルを回すと、次から次へと別の放送局の映像や音声が流れます。これはどういうことか?つまり、その場所には、いくつもの放送局の電波が送られてきていて、同時に存在しているということなのです。同一空間・同時刻、いくつもの電波が混在しているのです。
実際は、電波だけでなく、現在、その存在を科学的に証明されていない波動や今後も科学的に証明されることのない波動も、同時刻・同一空間内に畳み込まれるように重なり合って存在しているのです。
たとえば念波。人間の想念ですね。こうしたものも実は、宇宙空間を、テレビの電波のように飛び交っているそうです。人の心も、様々な周波数の波動の世界が、折り重なり合ってできているということなのです。
私たちの心は、発信機であり受信機のようなものです。たとえば六次元の悟りの段階の人とは、常時六次元の周波数の念波を発信し、また、常時六次元の周波数にチャンネルを合わすことができる人のことなのです。
もし、常時、九次元の段階にチャンネルを合わすことができるのなら、その人は九次元神霊と呼ばれるようになるということ。私たちの心のチャンネルは、根源の神にまで、途中途切れることなくつながっている。従って、理論的には、十次元以降の世界にチャンネルを合わせることも可能だということです。
たとえばラジオ。高性能のものは、多くの周波数にチャンネルを合わすことができます。また、かすかな電波もキャッチできます。しかし、性能の悪いラジオは、地元のラジオ局の放送だけしか聞くことができません。つまり高性能のラジオは、高い悟りの人で、性能の低いラジオは、低い悟りの人をたとえています。
人間は平等であっても、心の状態によって、高周波の世界に生きる人と、低周波の世界に生きる人と差別化されてしまうのです。神が勝手に差別化するのではない。心の状態は、各人の問題であって、自分自身で決定しているのです。
私たちの心からは、絶えず私たちの想念が念波として全宇宙に向かって放送されています。同時に、私たちの心の程度と同程度の念波を受信している。この念波の周波数は、大体平均しています。その平均値が、その人の悟りの段階なのです。
発信機であり受信機である「心」の性能を高めていけば、それに応じた段階の心の世界に通じていくことができる。高次元の精妙な世界に通じていくためには、それに見合うだけの心の状態を作り上げなくてはならないということなのです。
かすかな電波の放送を聞きたい時、それを受信できるだけの性能のラジオが必要なように、高級霊界に通じていくためには、その精妙な周波数を受信できるような受信機になる必要があるのです。
神光物理学の三つの基本命題
ここで、多重構造を理解していくための予備知識として基本的な考え方を紹介しておきたいと思います。
イエスは、「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」と言いました。これを「お金」のこととして考えると、何とひどい話だろうかということになりますが、そうではありません。神理の言葉というものは、タネと同じであり、受け取る側の心の状態次第で、実を結んだり、実らなかったりするということを言っているのだと思います。
ある人が種を蒔いていました。道端に落ちた種は、鳥が来て食べてしまいました。 石ころだらけの土地に落ちた種は、土が浅いので、すぐに芽を出しました。でも、日が昇ると、根がないので、枯れてしまいました。 茨の隙間に落ちた種は、その成長を茨によって止められてしまいました。 良い土地に落ちた種は、実を結び、あるものは100倍、あるものは60倍、あるものは30倍にもなりました。
この土地の状態は、私たちの心の状態をあらわしています。私たちの心の状態は、道端のような状態だとしたら、せっかく神理の言葉を聞いたとしても、サタンが忍び寄ってきて、その言葉を持ち去ったり、歪めてしまいます。
神理の言葉を聞いて、すぐに理解したと早合点して、喜び、はしゃぎまわる人は、石ころだらけの畑のような心の状態かもしれません。たしかに芽を出すのは早かった。しかし、しっかりと根付く前に、はしゃいで、あちこちと動き回るので、しばらくは熱中するのですが、ちょっとした艱難や迫害にあうと枯れてしまいます。
茨が生えているような土地とは、この世の思い煩いや富の誘惑などで揺れ動いている心です。そうした心に神理の種が蒔かれたとしても、この世的な悩みや欲望が邪魔をしてしまって実を結ぶことはないでしょう。
良い土地とは、石ころや茨が取り除かれて、キチンと耕されている畑です。そういう状態の心に、神理の言葉が蒔かれたならば、神理が実を結び、何十倍何百倍になって収穫されることでしょう。
「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」とは、そういう意味なのであります。「持っている」とは「聞く耳」のことだと思います。あるいは「神理を受け入れるだけの心の状態」を作り上げている人。心の畑をキチンと耕している人。こうした人が「持っている人」。
「持っていない人」とは、神理の言葉を受け入れる気持ちのない人のこと。聞く耳を持たない人、心の畑が荒れ放題の人。そうした人の心に、一万粒の神理の種が蒔かれたところで、すべてサタンがやって来て持ち去ってしまうのです。持っているもの(※蒔かれた神理の種)まで取り上げられてしまうということです。
神光物理学の第一テーゼは、このことを言っているのだと思います。神の光と親和的性質のあるものとは何でしょうか?それは真、善、美、愛、感謝、謙虚、誠実、明るさ・・・などです。神の光と排他的性質を持ったものとは、偽り、悪、自己中心、傲慢、冷酷、暗さ等々です。
私たちは、神理を学んでいく過程で、どうしたものが神の光と親和的なのか、排他的なのかを学んでいくことでしょう。そして、私たちの心が、親和的もので満たされていくほどに、神の光は増幅されていき、排他的ならば、神の光は避けて通っていく。類は友を呼び、類でないものは反発しあうということです。
神の心にかなう心の状態を築き上げることなく、どれだけ神理の言葉を暗記したところで、それが実を結ぶことはないのであります。まず己の心の畑を耕すこと。神の御心に反するような心の状態ならば、神の光は、そうした人を避けて行くのです。
いや、本当は、そうした人の心にも神の光は燦燦と降り注いでいるはずです。しかしその人自身が、神に背を向けて、神の光を受け入れない。あるいは、その人の想念のくもりで、神より射し来る光が遮られてしまうということでしょう。
この第一テーゼは、恐ろしいことに「逆もまた真なり」で、「神に反する想念は、親和的性質を持ったものに出会うと増幅される」ということを暗示しています。現代の世界は、悪想念が雪だるま式に増幅されています。何とかくい止めないと、大変なことになるのであります。
これは創造・破壊の原理です。要するに、念の力によって、神の光が目的性を持って凝集されると、まずそこに「霊的実体」が創造されるのです。さらに念の力を持続させていると、その「霊的実体」が物質化していくということなのです。
逆に、念の目的意識が解除されると、神の光が拡散を始め、まず「霊的実体」が消えて行き、そして物質化していたものも形態を失っていくのであります。これが創造と破壊のプロセスです。三次元宇宙の創造、人霊創造、人体創造など、すべてこうしたプロセスを経て行われたようです。
このような創造力は、実は人間にも与えられています。もちろん、神の創造力・破壊力とは比較にならないものですが・・・・・・。こうした創造力・破壊力は、両刃の剣であります。人間の心が神の方向を向いている時ならば、その創造力を大いに利用して、道を切り開いていけばよいと思います。
しかし、人の心が神と逆の方向に向かっている場合、こうした力は禍であります。また、「成功哲学」のように、お金儲けやこの世の地位向上のために第二テーゼを利用する人が多いのですが、もしそれが単なる自我我欲から利用しているだけならば、神の心に反することだと思います。
神の光と排他的性質を持った自我我欲に、神の光が射すことはないのでありますから、たとえ念の力で大成功を収めたとしても、必ずや反作用に見舞われることでしょう。
神より与えられた創造力という剣を、活人剣とするのか、殺人剣にしてしまうのか?これまた人間の心次第であります。
これは、「波長同通の法則」とか「類は類をもって集まる法則」とか呼ばれているものです。物理の授業で「共鳴」という現象を学んだことがあるとおもいます。あれと同じ感覚でしょうか。人の心も物理と、同じですね。誰かが意見を述べると、それと同じ考えの人は、必ず共鳴するものです。
実は、人間の想念は、念波といって、電波と同じようにこの宇宙を駆け巡っているそうです。そして、この念波には、それぞれ固有の周波数のようなものがあって、同じ周波数の念波としか通じ合うことがないようです。
私たちが「善き思い」を抱けば、それは言葉として伝わっていなくても、善き念波として宇宙中に放送されている。
逆も真で、悪しき想念は、他の人の悪しき想念を呼び起こすのです。極力「悪しき思い」を出さず、「善き思い」を発信していく。これが、ユートピア建設運動に多大な影響を与えていくことになるのであります。
ちなみに地上から発した念波は、この世だけを駆け巡っているだけではなく、あの世にも届いているそうです。たとえば地獄的な念波は地獄の周波数に通じ、天国的な念波は天国に通じるのです。地獄霊の波長と同通すれば、その地獄霊を引き寄せてしまうのです。そして常時そうした心の状態でいるのなら、完全憑依されていきます。
常に善き思いを発する人は、守護霊と同通していきます。そうすると、守護霊のほうも、私たちを守りやすくなります。たとえば、危険が近づいてきたとしても、霊感がはたらいて、避けることができたりします。
第六感というのは、本当にあって、すべての人が、多少なりとも感じているはずなのです。ただ非科学的という理由で認めたくないという人が多いです。実際は、すべての人が、あの世の霊人から何らかの影響を受けているようです。
人間の幸・不幸は、この三つテーゼによって左右されている。これらのテーゼから、私たちが進むべき道が導き出されています。簡単に言えば、「己の心を神の心にあわせていく努力が大切である」といった感じでしょうか。
宇宙の多重構造・体の多重構造
心の多重構造のイメージ図では、内部に進むほど高次元の世界につながっていて、最終的には根源の神にまで達しているというものでした。これは、つまり、心の内部に、多次元宇宙のすべてが存在していることを暗示しています。
私たち肉体を持った人間の感覚では、肉体の中に心が閉じ込められているように感じてしまいます。だから、心の奥に行けば行くほど、小さな空間に閉じ込められていく感じがします。でもその最深部は、根源の神に通じているということは、実は内部に進むにつれて、心の世界は広がっているということなのであります。
同心円では、中心部ほど小さな面積になっているのですが、実際は、中心が一番広い世界であり、中心が、外側のすべてを包み込んでいるということなのです。しかし、実際のところ、心の内部に、多次元宇宙のすべてが内包されていると考えるのは、非常に難しいことです。
この地球や太陽や月や、銀河系宇宙が、このちっぽけな心の内部に存在しているということが、どうしても実感としてつかむ事ができません。だから今は知識として知っておくだけでよいと思います。
多次元宇宙のイメージも同心円状で、上位次元の世界が、下位次元の世界を包み込んでいるものになります。心の多重構造とは逆方向です。つまり、すべてのすべてである根源の神が、もっとも外側で、内に進んでいくにつれて、下位次元になっていきます。最終的には無となってしまいます。
しかし、方向は逆になっていても、実は同じことを別の角度から表現しているだけのことなのです。この二つの相反するイメージを言葉で表現すると、「神は我が心の内側に存在し、かつ、神の内側にすべてが存在している」という矛盾したものになってしまうのです。
こうしたイメージも視覚的なものであって、実際のところは、心の構造と同じで、高周波の世界も低周波の世界も、重なり合っている、混在している、というのが真相のようです。
私たちの体も、霊界の構造と同様に、同心円状になっていると考えられます。私たちは、この世では、肉体をもって生活しています。ではあの世では、どうした存在形態をとっているのでしょうか。形のない意識体として煙のようにフワフワ漂っているのでしょうか。
実は、あの世の世界でも私たちは体を持っているようです。霊体というヤツです。そして肉体と霊体も、実は多重構造になっているようです。霊体には、各次元に適した体(※ボディ)があるようで、それらのボディは、多重構造になっているのです。
この世では「肉体」、四次元幽界では「幽体」、五次元霊界では「霊体」、六次元神界では「光子体」、七次元菩薩界では「光神体」、八次元や九次元では「神体」という体を持って個性ある存在として生活しているそうです。
下位次元ほど物質的な肉体のイメージに束縛されています。たとえば、「幽体」や「霊体」を霊視すると、地上の時の「肉体」とほとんど同じ姿形に見えるそうです。しかし高次元になってくると、かつての肉体のイメージの束縛から開放され、巨大な意識体、巨大な光として存在しているようです。
こうした各ボディも、別々に存在しているのではないのです。この肉体と重なり合うようにして同時に存在している。こうしたことは言葉では伝え切れない部分なので、例によってイメージでとらえていただきたいと思います。
たとえば冬の北海道が三次元、夏の沖縄が九次元とします。そして一人の人が、冬の北海道から夏の沖縄まで徒歩で移動している姿を想像して欲しいのです。北海道を出発した時は、寒いので防寒服を着込んでいます。
東北を旅している時は、少し暖かくなって、マントが不要になってきて脱ぎ捨てます。関東、中部地方、関西と進むにつれて、ドンドン衣服を脱ぎ捨てていくことでしょう。沖縄では、もう脱ぎ捨てるものがなくてパンツ一丁でも暑いのです。
私たちの多重構造のボディもこれと同じことなのです。私たちの個性ある生命を包み込んでいるのがボディであって、肉体を包む衣服のようなものなのです。寒い場所、暑い場所、それぞれの場所では、それなりの衣服が必要です。
この世でもあの世でも、やはり私たちには、その次元に見合ったボディが必要なのです。高次元に行くほど軽装になっていきます。八次元以上は、もう「神体」といって、光そのものといった感じらしいです。我々には想像できない世界です。
ここでどうしても理解して欲しいのは、肉体を持って存在している現時点においても、我々は各次元のボディを、もう既に装着しているということであります。それは、すべての人間の心には、九次元領域の世界までが内包されているのと同じことなのです。すべての人は、最初から「神体」を与えられているのです。
ただ、悟りの段階によって、その人にもっとも適したボディを使うということです。七次元の悟りを得てから、「光神体(※七次元のボディ)」を獲得するのではないのです。五次元の悟りの時から、既に、「光神体」も「神体」も与えられているのです。
ガチガチの自力主義者の多くは、努力によって、「光神体」や「神体」に大変身していくと考えているようです。あるいは、建物を築き上げるように、努力によって、四階、五階、六階、七階、八階、九階と積み重ねて行くと考えているのですね。
今はまだ、三階建てだと思っているのです。だからその上に築き上げようとして努力する。しかし、真実はそうではなくて、すべての人は、最初から超高層ビル。根源の神にまで到達している超高層ビルです。築き上げなくても、もう既に築かれているということなのです。
「肉体」を脱ぎ捨てれば、「幽体」がそこにあり、「幽体」を脱ぎ捨てれば「霊体」があらわれ、「霊体」を脱ぎ捨てれば、「光子体」が既に存在している。既に超高層ビルなのだから、四階、五階と作り上げていく必要などないのです。
階段を自力で上れば、次の階に到達する。「光子体」の下には、「光神体」「神体」が、もう既にあるのです。「人間は、そのままで神である」というのは、真理なのであります。ただ、その神としての自分を表に引っ張り出してくるためには、それなりの努力が必要。その努力の場が三次元世界なのではないでしょうか。
「努力、努力」とばかり書いていると、私自身も息がつまってくるのですが、こればかりは仕方のないことなのです。人間は皆、ダイヤモンドなのです。しかし原石です。美しい輝きを発揮するためには、自分自身でこの原石を磨き上げる以外に方法はないのです。あるのならどうか教えて欲しいのです。
楽をしてダイヤモンドになれるのなら、私もそのほうがいいと思います。でも、おそらくそんなおいしい話はどこにもないでしょう。努力が嫌なら、原石のままでいることに甘んじなければなりません。原石のままでいたい人は、それでいいと思うのです。
そうした人の首根っこをつかまえて、「努力せよ」と説教したところで反発心を煽るだけの結果に終わることでしょう。また誰にでも怠け心はあるのですから、他人様に偉そうなことをいうのは傲慢というものです。
ただ原因結果の法則を変えることはできない。「努力しないのなら努力しないだけの報いがあり、努力したら努力しただけの報いがある」、これだけは間違いのないことだと思うのです。
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大地を枕に-元気ですか? 僕は元気です。- |
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Author:大和春道 |
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