20100123 00422 31.「神仙の人」ノート 【31】 長生殿大事 ―神業成就の証し・長生殿―
昭和五十七年は、大本の開教九十年という記念すべき年にあたっていた。同時に直日八十歳、日出麿八十五歳をむかえた。 直日は、時おりの、日出麿との食事や碁の相手になることがいちばんの楽しみとなった。 二人の碁は、側近との碁ではなく、なごやかに笑いながらのそれであった。碁を知らぬ直日を相手に、日出麿も「困りましたなー」といいながら照れくさそうに、それでいていっこう困った様子もなく、笑いながら相手をした。 (「神仙の人 出口日出麿」P411~P422)
このころから、医師たちのすすめがあり、寝室にベッドがおかれ、日出麿はそこで寝(やす)むようになった。最近の日出麿について、一側近は書く。 「いちばんつよく感じたことは、なんとおやさしい方なんだろうということでございます。 ご機嫌のよい笑い声や、そこはかとなく感じられるなんともいえぬ雰囲気に、思わず先生のお身体にすがりつきたいような気持になるときがあります。気のつかない至らぬ者がおそばにおらしていただくのですから、お気にめさない事が多いと思いますが、そのような事はすこしも気配に出されません。 卦局(碁)のお相手をさしていただいて、二時間くらいしますと、フラフラになって判断力が鈍ってしまいますが、先生にはすこしもお疲れがみえません。 また、長時間、座ぶとんをはずされ、じっと正座をされ、瞑想にふけっていらっしゃるときがあります。そのようなお姿を拝しますと、過去五十年近い間、きびしい神仙の世界でお過ごしになった先生をおもい、涙がにじみ出るのをおさえることができません」 (「神仙の人 出口日出麿」P412)
八十代も半ばを過ぎて、足腰がめっきり衰えた。腰痛のため、碁や染筆のときは椅子を利用するようになった。 昭和五十九年、数え八十八歳の米寿を迎える。
この年の日出麿の米寿に、次女の麻子はこのような感慨をつづっている。 「物心ついたとき、父はすでに祖父(出口王仁三郎)や叔父たちと未決にはいっていました。 父が未決から帰り中矢田、穴太を経て但馬の竹田にうつったころ、私は小学六年生になっていました。機嫌のよいときは私が身体をさすっていましても至極のどかでしたが、急に交霊のはげしくなるときがあり、感じやすい年頃であった私の頭に竹田時代のはげしかった父の姿が染みつき、悲しいことですが、恐ろしいという思いの方が先行してしまい、その後ながい間、お正月と誕生日ぐらいに訪れるだけの、まことに親不孝で薄情な娘でした。私が父を身近に感じるようになったのは、ここ数年のことです。緑寿館に父がうつってからは、私も年のせいで、少々厚かましくなり、たびたび訪れ、丸くなった父の背中や足をさすり、父の足がこんなに柔らかく白かったのかと、急になつかしい思いがこみあげてきます」 (「神仙の人 出口日出麿」P414)
この翌日(※昭和59年11月6日)、教団は、綾部の本宮山の山麓に、開教以来の念願である“長生殿”(神殿・拝殿)(大和注1)の造営を発表した。信徒は歓喜して、これを迎えた。この長生殿造営は、昭和の初期に計画着工されたが、第二次大本事件の弾圧によって工事中に破壊されるという経緯があった。教主直日、教主補日出麿の時代に教団積年の願いが実現しようとしているのである。 この造営は、大本の開教百年の1992年の完成を目標としており、日出麿は、その進行を祝福するかのように、しきりに「長生殿大事」などと染筆する。 (「神仙の人 出口日出麿」P415)
【大和注1】 ― 長生殿 長生殿建ち上りたるあかつきは神の経綸も漸く成らむ(出口王仁三郎)
上の王仁三郎の歌を読めば分かるように、長生殿の完成は、大本の神業成就を意味しているらしい。要するに「みろくの世(※ユートピア)」の到来が近いということだろう。
米寿慶祝記念の一環として、「生きがいの確信」が11月に、前二著に続いて講談社から発刊。今回の本の内容は前二著に比べて、宗教色・哲学色の深いものとなった。この「現代の聖書」とも呼ばれる“生きがいシリーズ”三部作は、それぞれがベストセラーとなり、多くの人々に影響を与えてきた。
その年、ロサンゼルス・オリンピックの男子体操個人総合で逆転優勝した具志堅幸司は、日出麿の『生きがいの探求』『生きがいの創造』を旅先まで携帯し、紙がすりきれるたびにいくども買いかえて愛読した。そして、「前二著はわたしのお守りであったが、『生きがいの確信』こそわたしの教書である」と繰り返した。ちなみに、具志堅の優勝当日の朝、日出麿は遠くを見るような目付きで、「ホー、具志堅幸司かー、ハハハー」と笑い、色紙に「具志堅幸司」と染筆した。また、具志堅が演技の前に、口のなかでつぶやいていたことがマスコミで取り上げられたが、それも日出麿のノートにあった言葉であった。帰国した具志堅は、日出麿に金メダルを見せ、優勝の記念像を献じた。 (「神仙の人 出口日出麿」P416)
ちなみに、具志堅幸司が演技の前につぶやいたのは、「はるち うむち つずち」という言葉。「生きがいの探求」に書かれている言葉だ。 張るち うむち つずち なにごとをするにしても、この言霊(言葉)をくり返し唱える時は、よい実りがある。 (「生きがいの探求」P103 ※「信仰覚書」では、第4巻P134で、大正14年頃の日記らしい。参考HP→http://space.geocities.jp/afptrsnk/turuni.html)
なぜ、この言葉を唱えると良い実りがあるのか?、これがまったく分からない(^^;。まったく分からないが、実際、効果があるらしい。「マントラについて」で説明したように、おそらく、この言葉が合図となって、日出麿師に関係のある霊団が背後で動くのではないかと思われる。 ワールド・メイトの深見東州師もその著書(「強運」)で、「ハルチ・ウムチ・ツヅチ」をパワー・コール(※要するに呪文(^^:)として紹介している。深見師は、「この言葉は、古事記に明記されている」と説明しているが、実際には明記されていない(^^;。 おもしろいなと思ったのは、日出麿師の本では「つずち」で、深見師の本では「つづち」となっている点。言霊解釈の面から見て、この”一字違い”は、大きいのか、どうでもいいことなのか、よく分からない(^^;。 とにかく謎の言葉で、「この言葉の原典は日出麿の秘密のノート」としか言いようがないのであります。 ちなみに、笹目仙人の「モンゴル神仙邂逅記」に興味深い記述がある。笹目仙人が白頭山の呂神仙から、「月の精気を食(は)む秘法」を授かったときの話しだ。
・・・・・・(略)そうして、自身は月を背にして立ち、わたしを月に向かわせて立たせた。仙師とわたしは向かい合うかたちである。そうしておいて、天地否の印を結んで真言を唱えた。それから左手の拇指と中指をわたしの印堂に当てて、 「○○チ、○○チ、○○チ」 と、真言を唱えた(○は伏せ字である。この真言は秘中の秘なので文字にすることは禁じられている)。そしてこう言った。 「この真言を唱えながら、月に向かって立ち、月の精気を口から吸収しつつ噛みくだせ。これをくり返すことによって、体は常に健康で、精気にあふれた状態を保つことができる」 わたしは仙師に深く感謝して、洞窟をあとにした。 (「モンゴル神仙邂逅記」P61~P62)
この「○○チ、○○チ、○○チ」というのは、もちろん「はるち、うむち、つずち」のことであります。 もし、笹目仙人の記述が真実ならば、この言葉は、中国の道教系統の秘密の呪文だということになる。 その秘密の呪文を、なぜ日出麿師が知っていたのだろう? やはり、神仙の人だからだろうか(^^;。白頭山の神仙からテレパシーで教わったのか? あるいは過去世の記録をひもといたのか? ま、とにかく不思議な言葉であって、中国語なのか日本語なのか、それすら分からない。 個人的な意見を言うならば、「意味が分からない以上、あまり頼らないほうがいいのではないか!?」と思っている。 なぜなら、もし、この「はるち、うむち、つずち」が黒魔術の呪文だったら、それこそ取り返しのつかないことになってしまうからだ。意味の分からない呪文なんかに頼らず、我々は我々にも理解できる言葉を使って、心を込めて祈ることだと思う。心のこもった正しい祈りの言葉は必ず天上界に届くことだろう。
直日は、この『生きがいの確信』の“まえがき”でのべた。 「昭和十年のいわゆる大本事件で、日出麿がこの世ながら神仙の世界に入りましてから、もう五十年が過ぎました。そのあいだ、一切の現世的な営みからはなれて一室に端座し、類まれな霊的活動をしてまいりましたようでございます。それは常人の介入を許さない、清らかな悟入の境であるかと思われます」 そして、なお言う。 「太平洋戦争の勃発、終結、さらに戦後の混乱期を経て、日本が復興し、急速な科学文明の発達をみました今日まで、日出麿は一切を知りつつ、一切にかかわりなく、すべての人がしあわせになり、世の中がよくなることの具現に、文字通り全身全霊をかけてまいりましたように存じます。・・・・・・」 直日が、そして大本が対外的に、第二次大本事件後の日出麿の使命を明示したのはこれが最初であった。みじかい言葉であるが、この表現のなかに、昭和十年の法難以後の日出麿のすべてがのべられていると思われる。 たしかに、日本は終戦の難局を最小限の混乱で切り抜けた。また、戦後の復興も世界の人々に驚異の目をみはらせるほど“強運”に恵まれ、きびしい東西の対立もしだいにやわらぎ、新しいデタント時代を迎えようとしている。また、社会の暗部はしだいに露呈され、否応なしに立替え立直されつつある。こうした一連の世界の動きをみるとき、“みろくの世”にすすむ神の大きな足音を聞く思いがする。そして、そこに日出麿の永い日々の努力がひそんでいるように思えてならないのである。 (「神仙の人 出口日出麿」P417~P418)
この最後の部分、「戦後の日本の復興、そして繁栄は日出麿師のおかげ」説は、かなり我田引水的な解釈だと思います(^^;。真に受けたら負けです。ま、こういう解釈も出来るぐらいに受け止めたほうがいいのではと思います。
昭和六十二年(1987)八月、日本仏教の母山といわれる比叡山で、初の宗教サミットが世界の主な宗教二十数教団の代表が参加して催され、合同礼拝による平和の祈りが捧げられた。主催は日本宗教代表者会議である。大本も協力した。名誉議長として直日は、「父、王仁三郎の志が実現した」とのメッセージを寄せた。それは、みろく殿での“聖なる冒険”がおこなわれてからわずか十年のことであった。その宗教サミットの世界平和祈願が執行された八月四日、日出麿は朝から、 「宗教、気長に仲良うナー」 と盛んに言う。ついで種々の染筆があり、あらためて「宗教はみんな仲良うにナー」と言い、合掌拍手して一連の染筆を終えた。 (「神仙の人 出口日出麿」P421)
日出麿のめぐりに、幾星霜かがすぎた。 松をわたる風や小鳥の声が緑寿館にいつも清々しくひびいた。新緑は萌え、紅葉は照り、池の亀は甲羅を干し、鯉ははね、岸辺の花は香った。 照る日、曇る日、直日をはじめ子や孫、あるいは信徒が、いれかわり日出麿の居間を訪れる。最近では、碁や染筆の時間はへり、ベッドで過ごすことが多くなった。ひょうひょうとしたなかに、さりげないふしぎをたたえ、やすらぎの日はつづく。人間として未到ともいえるふかい境地にあって、なお世界のこと、日本のことを口にする。思いは世界をかけめぐるのであろう。 (「神仙の人 出口日出麿」P422)
平成元年(1989)五月五日、日出麿の住む緑寿館の上段に位置する平地に建設中の、長生殿の上棟祭がとりおこなわれた。 生殿は、綾部の至聖地・本宮山を背景に、神殿を拝殿からなる総建坪二千三百余坪の、直日の発願および設計による純日本式の広壮な建物である。とくに、この建物は開教以来、天地合体の“みろくの世”の到来を意味するものとして、信徒のひさしく待望していたものである。 この日、全国よりおおぜいが参拝し、神苑は歓喜にうずまいた。日出麿に祭典の時刻はだれも知らせていなかったが、祭典の開始直後、居間から祭場の方向にむかい、大声で「オー」と叫び、「ありがたい、ありがたい、ありがたい」と言い、拍手合掌して祝した。 九十二歳を迎えた。 思えば、ながい苦難の道のりであった。しかし、世界はあたらしい黎明の時代を迎えようとしている。万民和楽の聖代の訪れを告げる長生殿の槌音とともに、その曙光は、主神の愛と真の光となっていやましに、日本に、世界にかがやきわたることであろう。 (「神仙の人 出口日出麿」P424)
以上で“「神仙の人」ノート”は終了です。長かったぁ~(^^;。 この日出麿師の半生記「神仙の人 出口日出麿」が出たのが平成元年の10月。日出麿師はその2年後の平成3年12月、天寿を全うして(?)、あの世に旅立たれました。その行き先が光明の世界なのか、暗黒の世界なのか、なかなか判断がつきませんが、僕は光明の世界に帰られたと信じている。 (※「神仙の人」ノート その46〔2010.1.23〕)
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