20090403 00369 21.「神仙の人」ノート 【21】 神の行軍 戦塵渦巻く満州で 高見元男が出口日出麿として、陽の当たる表舞台で活躍した期間は、昭和3年から昭和10年まで。その間の足跡は、北は樺太、南は台湾、そして、朝鮮、満州、北京、天津、上海に及んだ。 昭和6年5月、満州、朝鮮へ。 昭和6年9月、満州へ。 昭和7年4月、満州へ。 昭和8年4月、上海へ。 昭和9年5月、満州、朝鮮へ。 昭和9年11月、朝鮮へ・・・・・・、
といった感じであります。 この当時の日本は、滅亡に向かって、軍部が暴走をし始めた恐怖時代のまっただ中だった。また、大陸のほうでは抗日排日の空気がみなぎっていた時代であります。 昭和3年、張作霖爆死事件、治安維持法改正、特別高等警察設置。 昭和6年、満州事変。 昭和7年、上海事変。満州国建国。 昭和8年、国際連盟を脱退。 昭和12年、日中戦争。 昭和16年、太平洋戦争。 昭和20年、大日本帝国滅亡・・・・・・、
本当に大変な時代でありました。 軍部主導の恐怖時代の日本は、やがて世界の孤児となっていきました。そんな時代、大本教団は”愛善の教え”を国内外で説き広めていたのであります。そして、その影響力があまりにも大きくなりすぎたため、時の政府に睨まれ、抹殺されてしまった・・・・・・ 戦禍(※満州事変)はしだいに拡大した。政治経済の機能は麻痺状態となり、人々の生活は窮乏し、難民は各都市にあふれた。こうしたなかで、右の壇訓(※神示のこと)を仰いだ道院・紅卍字会の人々は、ここでも天降った神のように日出麿の来訪を迎えた。その期待どおり、日出麿は現地住民の惨状をみて敏速かつ果敢な行動をとる。到着の翌日、紅卍会会員中の豪商らにはかって、必需物資を集め、軍に交渉して輸送することが決まった。奉天を拠点として大本、人類愛善会、道院、紅卍字会の信徒・会員を動員し、食糧や衣類、金品を送ったのである。この活動について加藤明子は、「食糧品を満載したるトラックの上には人類愛善会旗と紅卍字会旗と相交わり、へんぽんと風にひるがえり居り候、食を求めて寄り集う人達は、大騒動にこれあり候」と日本に通信している。一方、戦火に傷ついて倒れた兵士や負傷した民衆にたいしても、紅卍字会と人類愛善会は救いの手をさしのべた。戦死者の慰霊、傷病者の看護、慰問などである。日出麿自身も、国や人種に関係なく、中国、日本のそれぞれの野戦病院にいって傷病者にお取次(※病気平癒祈願)をおこなう。随行者は、これこそ神の行動であった、後年に回想している。 さらに人心の安定のため、戦塵渦巻くなか西に東に奔走し、民衆の救済と不安の除去、治安の維持などにつとめた。各宗教団体との平和実現を願っての提携もその一つであった。こうした大規模な難民救済と慈善活動が間断なく日出麿の指示のもとにおこなわれ、社会的にも大きな反響をよびおこす。道院・紅卍字会、人類愛善会にたいする信望は高まる一方であった。人類愛善会章のついた腕章があれば、どこでも通行することが出来たという事実をみても、現地での信頼の大きさが推察できよう。感謝状や礼状もぞくぞくとよせられた。 日出麿の滞在は百七日におよび、翌七年(1932)の一月九日までつづくが、反日的空気の高まりのなかで、道院・紅卍字会員が日出麿の指示にしたがう状況をみた日本政府は、異様な感じを抱き、あらぬ疑惑をもったようである。 (「神仙の人 出口日出麿」P206~P207)
さて、過てる日本の大陸政策によって、中国の抗日排日運動はさらに激化。日中関係は、まさに一触即発の状態となっていた。日出麿師は満州や上海、北京を訪れたのは、そんな危なっかしい時期でありました。 しかし、日出麿師はまたたくまに民衆の信望を得、歓迎を受けたようです。 その理由は幾つかある。 たとえば、その当時、中国で興った新宗教で”道院・紅卍字会”というのがあって、それが相当な勢力になっていたのですが、その”道院”に降りた神示が衝撃的な内容だったのであります。 簡単に言うと、 「至聖先天老祖に代わって一切を指示せよ」・・・・・・
要するに、日出麿師の言葉は神の言葉だということ。日出麿師に”絶対的権威を与える”このような神示が、各地の”道院”に降ろされたのであります。これが”道院”の信徒たちに衝撃を与えたのであります。 あるいは、日出麿師の超絶的な霊能力に対する畏怖の気持ちもあったでしょう。 また、現地での精力的な数々の慈善活動・・・・・・、 こうした要素が相まって、抗日排日の空気がみなぎる当時の中国大陸において、日本人でありながらも例外的に現地の人々の心をつかむことができたのだと思います。 口先だけで、世界平和を唱えても駄目だということであります。今のミニ教祖たちは、立派な理論や壮大な宇宙の法を説いたり、「愛し合いましょう、許しあいましょう」と綺麗なコトを叫んだりしていますが、結局、口先だけであります。 ”文証”、”理証”だけではユートピアはやって来ない。奇跡的な現象も必要だし、何よりもユートピア建設に向けての現実的な行動が大切なのだと思います。そういう面から”大本”を見ると、確かにこれは本物の宗教だったんだなぁ、と納得させられるのであります。 満州から帰った日出麿は、綾部の波多野記念館で”満蒙五ヵ月”との題で報告講演をおこなっているが、結論として、 「・・・・・・今後は日本の出ようひとつでいかようにもなるのでありますから、この意味においてわれら日本の責任は重かつ大であります。われわれ日本人の天よりの大使命を覚り、本当に胴腰を据えて、利権などは問題にせず、兄弟として愛善もって接し、指導してゆけば、かならず吾が日本を徳とする事は明らかであります。本当の善、心からの愛により、すなわち神慮に基づきたる東亜の大神策を堅く打ち立てねばならぬのであります」
とのべている。これは大本の満蒙問題に対する基本的な立場を説明したもの。宗教や民族の違いを超え、万教同根、万民同胞の精神に基づいて、満蒙に平和の楽土を建設することが民衆の救済につながり、ひいては世界に恒久平和をもたらすことになるという、愛善の精神にたっての活動であった。日本の軍部も「満州に王道楽土つくる」といい、日本、朝鮮、満州、蒙古、中国の五族協和という構想を国民に説いていた。しかしその内実は、旧満州を戦略上の防衛戦とし、軍事および経済的支配を企図したもので、人類愛善会のそれとは、まったく次元を異にするものであった。ここに日出麿の苦悩もあったのである。 (「神仙の人 出口日出麿」P206~P207)
上海で日出麿ブーム ●昭和7年1月、上海事変、起こる。 上海で日中両軍が衝突。満州事変から世界の目をそらすために、日本の軍部が引き起こした事件・・・・・・、だと言われている。ちなみに「事変」とは、「宣戦布告のないまま行われる国家間の戦い」のことで、実態は「戦争」そのもの。人間同士が殺し合っているのだ・・・・・・。
●昭和7年、5月15日、五・一五事件。 海軍青年将校・陸軍士官学校生徒らが首相官邸などを襲撃。犬養毅首相が射殺される。犬養の死は、”政党内閣の死”と言われ、これにより軍の政治に対する主導権が確立した。
昭和8年4月17日、日出麿師、上海に旅立つ。 日出麿は、上海に着くや、さっそく上海事変の戦跡をめぐり、日本人、中国人の戦死者、犠牲者の慰霊祭を行って霊魂の救済をはかる。この上海でも要人、知識人との面談があいついだ。そのなかでつぎのようなことがあった。日本人の知識者層の十人ほどがあつまっての座談がもたれたときである。”神などあるものか”という無神、無霊魂が話題となり。議論が沸騰した。それを聞いていた日出麿は、一人ひとりに「あんたはここが悪い、あんたはここが痛いだろう」と言いだした。よほど腹にすえかねたのであろう。ある人には「あなたはいま、女性問題で苦しんでいるでしょう」などと言った。そして、すべて的中したので、みなが唖然とする。しかもそれぞれに鎮魂し、その痛みや悪い箇所を治している。これは随行した伊藤栄蔵の思い出話である。伊藤は有能なエスペランチストであるので、日出麿はその方面の仕事もたびたびあたえている。上海のエスペランチストとの交流、集会、講習などに伊藤は活躍し、日出麿も出席してエスペラントで挨拶した。 滞在は二ヵ月であったが、上海に日出麿ブームが起こったという。六月十六日、数百人の「万歳、万歳」の声と涙に送られ、上海をあとに帰国の途についた。 (「神仙の人 出口日出麿」P210)
”昭和神聖会”発会 そのころの日本は、昭和六年の満州事変から翌年の上海事変をへて国民の不安がたかまり、”非常時日本” ”生命線を守れ”などのスローガンが喧伝される。国民精神の高揚が叫ばれて軍国色が濃厚となり、ファッショの波は各方面におよんだ。軍事費の増大と経済の不況による社会不安は深刻となった。その”非常時”のなかで大本は外郭団体”昭和青年会”を結成し、全国組織とした。それは「人類愛善の大精神にもとづき、昭和の大神業のため献身的活動奉仕をなすを以て目的」とする活動団体であった。 (「神仙の人 出口日出麿」P213)
同年(昭和9年)七月二十二日には東京九段の軍人会館(現・九段会館)で、”昭和神聖会”が発会した。発表式の壇上には、そうそうたる顔ぶれがそろい、三千人を越える会衆で埋まり、会場前も人であふれた。神聖会の統管には王仁三郎が就任し、副統管は内田良平(大日本生産党総裁)と出口宇知麿(王仁三郎の女婿)であった。それは敬神愛国の至情のもとに、国民に精神的覚醒をうながし、協力して国難を打開し、争いのない理想社会を建設することを目的としていた。 (「神仙の人 出口日出麿」P214)
第一次大本事件は、昭和2年5月、大赦令で免訴になったけれど、大本に対する当局の監視は続けられていた。 大陸での日出麿師及び人類愛善会の異様なまでの大活躍・・・・・・ あるいは、”昭和青年会”で行われた軍隊式の訓練・・・・・・ そしてとどめは”昭和神聖会”・・・・・・ 会員五十万人、賛同者数百万人、軍部の革新派や右翼団体ともつながりを持つ、強烈なエネルギーを感じさせる団体であります・・・・・・
大本のこうした動きを見ていて、当局が、「こいつら、何かとんでもないことをしでかそうとしているのではないか!?」と勘ぐるのも、ある意味当然のことだろう。 果たして、とうとう行動調査の命令が特高警察に下ることになるのである。 ちなみに、王仁三郎は、”昭和神聖会”の運動に全精力を注がなければならなかったから、その発会を機に、大本教団のほうは日出麿師に任せることにしたようだ。 教団を任された日出麿師は、もろもろの要職を兼任し、神務に忙殺されることになる。 そして怒濤の如く、運命の昭和10年に突入していく・・・・・・。 出口日出麿37歳、その霊能と風格は、まさに円熟の境地! 日出麿師を信奉していた人たちから見れば、「さあ、これからだっ!」と思えたことだろう。 そんな時、第二次大本事件(※昭和10年12月8日未明に勃発)が起こった。 大本のご神体が崑崙山に!? ここで、一つのエピソードを紹介しておこう。 第二次大本事件勃発の数日前のことだ。神仙の寵児・笹目秀和氏の著書に書かれていることだが、真偽は定かではない(^^;。 11年前、笹目氏は、白頭山の呂霊棘神仙(りょりんらい・しんせん)から、「お前は12年後、 崑崙山の疏勒神仙(しゅろ・しんせん)を訪ねて、今後のことを相談するようにしなさい」と言われていた。 そして昭和10年になり、そろそろ崑崙山に旅立つ時期がやってきたのだが、さて、出発しようとすると魔障の超強烈な攻撃が始まって、どうしても出発することができない。それで出発の時をズルズルと引き延ばしてきたのだが、いよいよタイムリミットになって、決死の覚悟で出発することにした。 笹目氏は出発の前、昭和10年12月4日に京都を訪れている。出口王仁三郎に会うためだ。 ボツボツお着きになりますよ、という受付の人の声に促され、聖師さまをお迎えする一行に加わって、私も駅へと歩いた。 「ああ、笹目さん、きてはったか。いっしょにお乗りやす」 駅頭でわたしの顔を見ると、王仁三郎師は気軽にわたしを車の中に招じいれた。そして、大本聖地の鶴山山頂にある穹天閣に案内してくれた。ここは王仁三郎師の本部での宿泊所でもある。そうして言われることに、 「ご苦労さんやなあ、笹目さん、今度のご神事はわたしに代わって行くのやさかえ、しっかり頼みまっせ」 「そうですか、聖師さま。それにしては少々難儀が大きすぎませんか」 これは魔障の攻撃のことを言ったのである。 「あんた、霊界物語、しっかり読んだようやなあ。今回のことは、あの○巻の仕組やさかえ、難儀は避けられへん。頼みまっせ、ほんまに」 「私は×巻だと拝察していたのですが、○巻でしたか。それではまだまだ難儀は続きますね」 「あんたはん、いつ発たれますか」 わたしがまだなんの説明もしていないのに、突然そうたずねられた。モンゴルにいつ行くかという問いである。 「今夜にでも発ちたいと思っています」 「今夜は日出麿との出会いが必要だっせ。崑崙山に納まり願うご神体、夜半に勧請しておきますさかえ、ゆっくり休まれて、明日の朝きておくれやす」 ということで、その夜は、夕食に王仁三郎ご夫妻とともにし、宿泊は日出麿邸ということになった。八時過ぎに、祖霊社の近くにある日出麿師の住居にお伺いすると「待ってましたがな、早うおあがりやす」と、気軽に迎えてくれた。 しかし、お茶などいただいたのちは、きびしい口調になり、 「西北の天地は暗雲低迷していて、ご神業の展開は容易なことではない。けれどもあなたをおいてはこの任務を遂行できる人は見当たりません。だからあえていばらの道を押し進んでもらうよりほか、ないですね。任務のかなめは、崑崙山中に大本のご神体を納めてくることです。主神はあなたに絶大な期待をかけておられますから、自重してください」 つまり、わたしに大本のご神体を託すから、崑崙山にお鎮めしてこいということなのだ。 突然の話である。それを当然のことのように言われるのは、どうしたことだろう。わたしが今日、ここにくるのがわかっていたようではないか。 「白頭山の呂神仙のおっしゃることには、寸分の間違いもないでしょうね」 「あの仙師は、素尊(※大和注 ”スサノオノミコト”のこと)の御代様として降臨しておられ、いっさいの俗を離れておられる方ですから、言語動作に寸毫の誤りもないことを断言します」 「十二年前に命じられた崑崙山行きを決行するわけですが、大本のご神体のことと、使命は別ですか」 「いずれも素尊からでていることで、決して別のことではありません」 そのほかに細かいことをいくつかたずねた。最後に日出麿師はこういって哄笑された。 「やがて地球の裏表がひっくりかえるようなときがくると、大本神業の地場が崑崙山中に移らないともかぎらないからね」 その笑い声はわたしの腹の底にしみ通った。日出麿師の言葉が何を意味するか、おそらく百年後でなければだれにもわからないだろう。 翌朝は未明に起きて、鶴山に登っていった。王仁三郎師はすでに起きて、玄関に立ってわたしを待ち受けておられた。 「笹目さん、これが大本のご神体です。崑崙山の神仙があなたのくるのを待っておられるはずですから、その案内に従い、その指示するところに、このまま埋めてください」 そう言って渡されたものは、直系六センチ、長さ三十センチくらいの孟宗竹に密封され、全体に黄色の漆が塗られていた。 「確かに使命を果たさせていただきます。なにか、尊奉すべきお言葉がございますか」 「なにもない。ただ口外を慎むこと」 この聖師のお言葉に千金の重みを感じた。 竹の筒からは、紫色の光彩が放たれているように感じられた。筒の上側に紫色の紐がついていたので、それを首にかけて上着の中に入れ、 「こういうお供のしかたでよろしいでしょうか」 と、たずねると、 「お断わりして、鞄の中に納めてもいいですよ」 というお答えで、これはありがたかった。 王仁三郎のところを辞して日出麿邸に戻ってくると、日出麿師自らが玄関の前で迎えておられた。どうぞと言って、ご神前に案内されると、師は静座して天津祝詞を奉誦されたので、私もそれに従った。 そのころになって、ようやく夜が明けてきた。わたしは七時発の一番列車で出発することにして、その旨を伝えた。 「そうですか、聖師様は正午ごろの列車で松江にご出発ですが、わたしは明日になってから亀岡に帰ります。綾部へはご神体をあなたにお預けするために、その橋渡しにやってきたようなもので、こちらもこれからなかなか忙しくなりますんや。笹目さんもお元気で」 日出麿師はそう言って、わたしの手を堅く握った。その握力の強さで、わたしの手はその後数日間、しびれを感じていたほどであった。 (「モンゴル神仙邂逅記」P212~P217)
笹目氏は、それから大陸に渡り、満州の松島館に戻ったのが、数日後の昭和10年12月8日の午後2時。
それから部屋に落ち着いてお茶を飲んでいたが、新聞の号外を見て、愕然とした。大本教弾圧の記事だったのである。その骨子は、
「今朝(12月8日)未明、京都府警察隊は数百名の警察官を動員して、綾部、亀岡の大本教の施設一切を破壊し、教団が再起不能になるほどの壊滅的打撃を与えた。石造りの月宮殿は爆薬をしかけて破壊した。松江に行っていた王仁三郎は該地別院において捕縛したが、天皇制を破壊しようとした王仁三郎の陰謀暴露による邪教退治である――」 というものであった。 私はまだ、日出麿師と握手をした手がしびれているのを感じていた。この巡り合わせのよさから察するに、この日があることを知っておられて、王仁三郎師も日出麿師もわたしにご神体を託したものであろう。しばらく夢中になって新聞を読みふけっていた。 (「モンゴル神仙邂逅記」P225)
とまあ、こういう出来事があったと、笹目氏は述懐しているのであります。笹目氏がこの話しを発表したのは、シベリアから日本に戻ってきてからのことであるから、昭和32年以降のこと。しかし、その時には、既に王仁三郎は亡くなっているし、日出麿師のほうは精神に異常を来していましたから、本当にあったことかどうか、確かめようがないのであります。 ただ、なかなか浪漫あふれるお話しなので、伝説として紹介しておきます(^^;。 我慢の限界 さて、第二次大本事件では、当局の圧力は、いっせいに日出麿師に向けられた。 老い先短い王仁三郎よりも、現役バリバリ(^^;で、超絶的霊能力者で、しかも王仁三郎に負けず劣らず人望の厚い日出麿師のほうが、ある意味脅威だったのだろうか。 戦慄すべき拷問の日々が始まった・・・・・・。 無抵抗のまま耐えていた日出麿師であったが、とうとう、ワケの分からないことを叫びはじめ、狂乱状態におちいってしまう。しかし、それでも当局は、発狂を装っていると決め付け、拷問の手をゆるめることはなかった。 ●昭和11年2月26日、二・二六事件が起こる。 陸軍の皇道派青年将校らが約1400の兵を率いて、武力による政治改革を目指したクーデター事件。内大臣・斎藤実、蔵相・高橋是清、教育総監・渡辺錠太郎らが暗殺される。翌日、東京に戒厳令。2月29日に鎮圧。青年将校の大半は死刑に。以後、統制派を中心とする軍部の発言権が強化される。陸軍の政治支配が、ますます強まり、日本は軍部独裁の国家主義国家となっていく。
昭和12年5月、ようやく直日(なおひ ※三代教主)に日出麿師への接見が許される。 事件勃発から約一年半も過ぎてからのことである。それまで直日は日出麿師に合うことが許されず、悶々とした日々を送っていた。 「日出麿は抹殺されかけている」とか、 「拷問で病気になってしまった」とか、
そういった耳を覆いたくなる噂が、どこからともなく聞こえてきて、居ても立ってもいられない苦しい日々であった。 当時、直日の胎内には日出麿の子が宿っていた・・・・・・。昭和11年8月2日、待望の長男が生まれ、さっそく拘留中の日出麿師に、その旨を知らせたが、返事はなかった。それから9ヶ月たって、ようやく接見が許されたのだ。 直日は生後9ヶ月の長男・梓(※出口京太郎)と山科刑務所に出向く。一年半ぶりの再会である・・・・・・、しかし日出麿師の眼はうつろで、もうろうとしている。 直日 「元男さん、男の子ができました」 日出麿 「知らんなァ、覚えがないなァ」
耳を疑う言葉が、直日を奈落の底に突き落とした。噂は本当だったのだ。日出麿師は、過酷な拷問で精神に異常を来してしまったのだ・・・・・・。 その時までは、 「この事件は神の経綸だから、人間心を出さず、ジッと耐え忍ぶほうがよい」
と考えてみたり、 「法廷で争そうには、莫大な費用がかかる。といって、その費用を工面しようとして動けば、検挙される」
という事情から、”逆賊”、”国賊”と罵られながらも、じっと耐え忍んできた。 しかし、変わり果てた日出麿師の姿を目の当たりにして、当局に対する憤りを、もはや、抑えつけることはできなかった。如何なる困難が立ちはだかろうとも、敢然と立ち向かうことを、直日は決意した。 直日と一部の信徒の血のにじむような努力がみのり、監視と圧迫の下をかいくぐって弁護費用の調達に応じる信者が増えた。弁護人も王仁三郎と直日に会ってはじめてその真相と決意を知り、弁護の準備に熱がこもり、清瀬一郎(※大和注 戦後、東京裁判弁護人)を中心とする十八名の大弁護団が、結成された。王仁三郎らの死刑説がひろがる状況下にあって、「向こうの思うままにもってゆかれるにしても、せめて被告人たちに一度でも法廷でこちらの思いきりのことを言わしてやりたい」という直日のぎりぎりの願いが通じたのである。 (「神仙の人 出口日出麿」P247~P248)
(※「神仙の人」ノート その29〔2009.4.3〕、その30〔2009.7.18〕)
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