20080727 00322 3.「神仙の人」ノート 【3】
人生の序章
さて、今回からは、第二次大本事件までの日出麿(ひでまる)師の足跡をたどることにしよう。
出口日出麿(※旧名・高見元男たかみ・もとお)、明治30年(1897)12月28日、岡山県倉敷市阿知町、仁科清吉次男として誕生。戸籍は倉敷市連島町西ノ浦、高見和平次長男として届けられている。
小学校低学年ぐらいまで、身体の方が丈夫ではなかったが、次第に壮健となる。弱々しくみえて腕っ節がつよく、上級生と喧嘩になっても負けなかったそうである。 また、霊感が強く、幼少の頃から幻覚や霊現象で苦悩することが多かった。
・・・・・・(略)、元男の人間性について実母の”ひでの”は戦後大本に招かれたとき、こうのべている。
「幼いころから欲のない子でした。そして誰かれなしに親切にしてやる子でした」
やさしい子であった、ということは血縁につながる人々の口をそろえて語るところである。成人してからも元男は――そばにいると真綿でくるまれたような気がする――と慕われたが、その深い情愛はすでにこの時期から育まれていたのである。
欲しければわが魂も譲るべしましてやなべてのものにおいてや できるなら骨をさいても与へむと思う心を人は知らじな
と元男はこの十年後に詠んで、私利私欲に狂奔する人々を心底から哀れんだが、この、自分のことよりまず人に与えようとする心のうごきは、生まれついてのものといってよいだろう。そして、複雑きわまりない家庭環境が影をおとすことなく、生来のやさしさ、温かさがうしなわれることはなかった。
(「神仙の人 出口日出麿」P30~P31)
小学校の頃は、算術や体操が嫌いで、綴方(つづりかた)、読方(よみかた)が得意。 中学の頃の成績は、トップクラスだった。その後、第六高等学校へ。ここでも当初は、成績がトップクラス。その上、まじめで親切だったから、級友の信望があつかった。
専攻は心理学。選んだ理由は、幼少の頃から心に重くのしかかっていた目に見えない心霊に対する悩みを解決したかったから。また、この頃から、すでに宗教にもふかい関心をよせていた。
日出麿師は幼い頃から、次から次へと近親者の死に出会ってきた。そしてこの時期、追い打ちをかけるように、深く愛していた祖母の”いし”と、乳飲み子の頃から兄妹として育てられてきた分家の三鶴を相次いで失う。大きな衝撃、たとえようないさびしさが、日出麿の心に襲いかかる。
その時期、いかに生くべきかという問題に頭を痛めるようになる。授業にでる日よりも休む日が多いくらい欠席がつづいた。ボンヤリと過ごす日がおおくなった。こうしたなかで、元男は「暮夜(ぼや)の砂糖箱が口を利く限り、マキャヴェリが外交家の渇仰人物である限り、永久にこの世は闇だ。如何に弁解しても、要するに強い者が勝を占め、ずるい者(やつ)が利を獲る世の中だ」と、きびしく時代を批判する。”暮夜の砂糖箱”とは賄賂のことであろう。マキャヴェリ(1469-1527)は、イタリアの政治家・歴史家で政治目的のためならどんな醜悪な権謀術数的手段も許されると説き、近代政治学の先駆者となった人物である。
(「神仙の人 出口日出麿」P34)
当時も今も同じということである。清らかな心のままで現実社会を生き抜いていくことは、本当に難しい。 いつの世でも、平気で他人の足を引っ張り、他人の頭を踏みつけて、上へ上へとのし上がってくことができる、厚顔無恥な奴らが、トップに立って、人々を思うように支配しているものだ。
若き日出麿師は、そうした現実社会が嫌で嫌でたまらなかった。当時(大正8年)の日記に次のように書かれている。
「ああ黄金からの解放! 現代、何がさし迫っているといって、これほどのものはあるまい。自己の幸福を犠牲にしてまで、黄金のために苦しむ必要がどこにあるか」
「じっさい、今の人間は物質と精神の価値を転倒している。金さえあれば、どんな精神的屈辱でも忍ぶという世の中になってしまった。今の人間はまったく黄金の奴隷なんだ。黄金を征服し、こいつの息の根を止めないかぎりは、われわれは一日として安心して日を送るわけにはゆかない。現世の乱れの根本は、まったくこいつのなせるわざに過ぎないのだ。どれだけ多くの同胞が、こいつのために悩まされ、しいたげられつつあるかと思えば、ああ、腹が立って腹がたってたまらない腐った世の中で、いやだ、いやだとあがきながらも、私もついに黄金の鎖に縛られたまま墓場まで引きずられてゆくのだろうか。悲しいことだ。堪えられぬことだ」 「もし吾人(われら)をみちびく神なるものが真に存在するならば、たとえ一分一厘たりとも正義がしいたげられ、不正が賞せられるという道理はないはずだ。また、この世にはたして神仏もなく、死後の生活もないものなら、なにを苦しんで汲々として五十年を苦しまんやだ。いずれは消えてあとなき露の命なら、自分は自分だけのためを考えればたくさんだ」
(「神仙の人 出口日出麿」P35)
こうした苦悩から、大学を出たら、「もう百姓になる以外に途(みち)はない」とまで、思い詰めるようになった(^^;。
そして、日出麿師21歳(※大正8年)の春、ついに運命の出会いが訪れる。巨人・出口王仁三郎との出会いである。日出麿師の運命の歯車が大きく動き始める・・・・・・。
当時、日本は国際社会で孤立しはじめていた。人々の間には戦争に対する危機感が漂っていたのである。 そうした時期に、「大本(おおもと)」の大幹部だった浅野和三郎が、開祖のお筆先を自分流に解釈して、「大正10年立て替え説」、「大正10年終末説」を大々的に唱えたのだ。
「あの有名な東大出身の英文学者・浅野和三郎、あの超インテリの浅野和三郎が言うことだから、もしかすると本当に終末がやってくるのかも知れないぞ!」・・・・・・
ま、当時、国際情勢に危機を感じていた人々は、こう思ってしまった(^^;。「何とかせんと、どえらいことになるぞっ!!!」と思ってしまったのであります。
実際その頃、陸・海軍将校、あるいはインテリ層、はたまた日本各地のサラリーマンたち、農民、学生諸君が、どんどん大本に入信して、社会問題になっています。
日出麿師がいた岡山の六高(※旧制の第六高等学校)の生徒の中からも入信者が続出している。その中の一人が日出麿師の学友で、その学友の話を聞いて、日出麿師も「大本」に興味を持ったのであります。そして、大正8年の春、「大本とは如何なる宗教なのか?」を確かめるために、京都の綾部に旅立つのである。
ただし、日出麿師の場合、浅野和三郎の「大正10年終末説」に惹かれたワケではない。人生の答えを求め、門を叩いたのであります。
終末の予言に煽られて、自らが救われてもいないのに世を救おうとして、宗教団体に馳せ参じてくるような人々は、予言が外れると、すぐに辞めてしまうものだ。そして、その後は手のひらを返すように、その宗教団体の悪口を言い始める。
そういうテアイは、美辞麗句や見せかけの善行で、己の表面を美しく飾っているけれど、心の底では、
「華々しく活躍して、脚光を浴びたい、認められたい、褒められたい」
と思っていることが多い。「正法を学び、実践し、人格を高めていきたい」という、尊い気持ちが全くないのである。
「率直にいえば、私は黄金万能、本末転倒の現代に真からたえられなくなった。もの心ついて以来、極度に腐敗しきっている現代に対して、絶えざる失望と憤怒とは、鬱勃として胸中にみなぎっていた。一方、私は神霊問題については、平素から多少経験もあり、また調べていたこともあった。そして、どうしても現代一般の心理学者の唱えているような学説では、満足することができなかった。
イライラしたやるせない心を抱いて、自分ではどうしても解くことのできない生命の謎を、どこかで解いてくれるものはないかと、長いあいだアチコチさまよってきたあげく、私は、とうとう大本なるものにぶつかったのである。そして、今までいろんなものに接し、数多くの宗教学説にも近寄ったが、この教えほど私の魂の底まで感激と法悦とを与えてくれるものは一つもなかった」
(「神仙の人 出口日出麿」P48~P49)
大本との出会いは、日出麿師の人生のターニング・ポイントとなった。ここから運命が動き始める。この出会いまでは、人生の序章。そしてここからが、日出麿師の人生の本章が始まるのであります。
日出麿 若き日の肖像
綾部での滞在で大きな感激にひたった元男は、いったん岡山に帰った。「幸か不幸か、大学卒業後には百姓をしようと思った折角の理想もオジャンになった」と、このころに書いている。また、物にたいする執着がこれまで以上になくなった。
生活ぶりも一変した。もろもろの神霊についての苦悶が、あとかたなく解かれたからでもある。人生の方向が定まったということもある。しかし、もっとも大きい原因は神との対面であり、元男の体内への流入であろう。ながらく探し求めていたものに出会ったことの快い充足と大きな使命の自覚。それはあたかも、しなびた草が一掬(いっきく)の水によみがえったようであった。こうも書いている。
「自分もいったんこの世に望みを失って、生ける屍として煩悶を重ねていたのであるが、正確に神の実在を知り、懸命に、ただただ神の一下僕として働かんことをのみ念願するにいたったのである。かくて始めて、生きていること、働くことに楽しみと意義とを見出したのである」
(「神仙の人 出口日出麿」P53)
この後、日出麿(ひでまる)師は、六高の大本信者の学生たちと共同生活を始める。どちらかというと無口だった日出麿師だが、大本を知ってからは、快活になっていった。
信者仲間たちは、学業を忘れ、毎日夜ふけまで「立替え・立直し」を論じ合った。だから、みんな、学年試験の時は、日出麿師だけが頼りだ。
「どういう問題が出るか?」、日出麿師に聞けばピタリと当たるから・・・・・・。
だから、満点を取ってしまうと、カンニングだと勘ぐられるから、わざと間違った答えも書いたそうだ。ま、カンニングと同じようなものなんですがね(^^;。
当時の学友たちは語る、
「高見君のおかげで六高も満足に卒業できたし、大学1へも行けた」・・・・・・
「頭のいいやつは冷たいものが多いが、高見君はともて温かかった」・・・・・・
ある時、こんなことがあった。試験の前日、日出麿師の行方が分からなくなってしまったのだ。日出麿師に聞けば何とかなると、高を括っていた学友たちは青ざめた(^^;。幸い、日出麿師が戻ってきて事無きを得たが、「こういうことが起こっては、かなわんわい!」ということで、学友たちは日出麿に、次のような身勝手な懇願をした。
「試験の前、高見君の居場所が分からないと大変なことになるので、この期間だけは行き先を分かるようにしておいてくれ」と・・・・・・なんと身勝手な(^^;。
それに対して日出麿は、次のように応えたという。
「そういうとき(※行き先が分からないとき)は、半紙に私の名前を書いて、神前に置いて四拍手してくれ。いつでもやってくる」
みんな冗談だと思っていたが、その後、日出麿師の居場所がわからず、大いに困ったことがあったので、騙されたと思って、言われた通りにやってみると、あら不思議???、程なくして、「どうしたんじゃ」と日出麿師が戻ってくる。「偶然だろう?」と思ったけど、そういうことが度重なる。
学友たちが近くの山にでかけた。元男だけはなにか用事があったらしく、白石の家にとどまっていた。山に着いた学生たちが口々にこう言う。「オイ、なにか甘いものが欲しいなァ」「高見に持ってきてもらおう」「しかし連絡をどうする・・・・・・」。しばらく間があって、「あいつは神さんみたいな奴だから・・・・・・」と、いうわけで”高見元男、菓子を三十銭分買ってこい”と空中に指で書いたのである。しばらくすると、元男が麓の方から上がってくるのが見えた。手に菓子袋をぶら下げている。元男は、「オー、三十銭ほど買うてこいとはヒドイこと言うなァ」と、こともなげに笑う。なかの一人が、どうしてわかったのかとたずねると、元男はすずしい顔をしてこう答えた。
「人の身体からは、いつも霊気を放射している。とくに掌は集中的にそれをおこなうことができる。昔は身体にどこか悪いところがあれば、掌を当ててその霊気で治したので、これを”手当て”と言ったものだ。それで、意念を集中し、わしを念じながら、霊気を人さし指にこめて文字を書けば、そのまま霊光となって、わしの眼前にとどくのや。ちょうど電気の光のようになって文字が読める」
(「神仙の人 出口日出麿」P57)
まあ、こういう感じだ。 実に”ひょうひょう”としている。とらわれがないのだ。 霊能力を自慢するわけでもない。 霊能力のあることを隠すわけでもない。 「霊能力など必要ないのです」といって否定するわけでもない。 成功するために霊能力を利用する気もない。
誰かが困っていて、己の霊能力が役に立つのなら、当たり前のように救いの手を差し伸べるだけのこと。 恩に着せるつもりもない。 見返りを期待することもない。 褒めてほしいわけでもない。 「俺が助けてやったんだ」と吹聴することもない。 困っている人に、親切にする。ただそれだけのこと。
大正八年九月、京都帝国大学に入学。東大もすすめられたが、「大本に近い」という理由で京大を選ぶ。入学後、学問をせず、大本に入り浸る(^^;。
当時、本宮山(ほんぐうやま)が大本の所有となって、その山開きが行われていた。多くの信者たちが奉仕作業にきていて、日出麿師もその中にまじって頑張っていたのだ。
その頃のエピソード。
土運びのパートナーだった神奈川の新島秀吉に、日出麿師が話しかけた。 日出:「新島はん」 新島:「なんや、くたびれたんかい」
二人は作業を中断して、土手に座る。 日出:「わし大本の後継者なんだがなァ・・・・・・」 新島、あきれかえる(^^;。
新島:「すると、あんたはんが、三代さま(出口直日でぐち・なおひ)のお婿さまだというんですかい」 日出:「うん、そうなんや。はじめからそうと定まっとるのや」 新島:「そんなばかなことがあってたまるかい。万一ですな、そんなことないが、万一にだよ、そうなったら、あっしは豆腐の下駄をはいて、綾部の市中を踊り歩いてみせやしょう」 日出:「そんなもんかな」
こういって、日出麿師笑う。・・・・・・
日出麿という人は、”ひょうひょう”としていて、風采をいっこうに気にしない。また、パッと見、ひ弱そうに見えるのだ(※実はケッコー体力があったらしい)。
新島は、そんな日出麿師の表面だけを見て、「こんな青二才が大本の後継者になれるはずがない」と判断して、啖呵を切ってしまったのだろう。
ところが、9年後、新島は度肝を抜かれることになる。日出麿師の言葉が現実化してしまうから(^^;。
しかし、日出麿師は冗談のつもりで、新島に「わし大本の後継者なんだがなァ・・・・・・」と言ったのだろうか? それともまじめな話しのつもりだったのか? おそらく日出麿師は直観で、己の運命を見通していたのだろう。 そして、そのことを新島に、何の気負いもなく、ただ何気なく語ったのだろう。実におめでたい性格だ(^^;。
しかしこれも人徳のなせるわざか。こんな大風呂敷をひろげても、どこか憎めないところが、日出麿師にはあったのである。
(※「神仙の人」ノートその4〔2008.7.27〕、その5〔2008.7.29〕)
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