16.「知的生活の方法」 :: 2007/05/17(Thu) |
20070517 00230 16.「知的生活の方法」 渡部昇一著(講談社現代新書)1976年
渡部昇一先生は凄いと思う。とにかく凄いのだ(^^;。
たとえば、ジョセフ・マーフィーとか、ウェイン・ダイヤーといった海外の成功哲学を翻訳して、日本に広めたのは渡部昇一先生だ。それ以外にも、数多くの欧米のすぐれた大衆哲学本を紹介している。専門家の紹介する難しい哲学の本を読んでみても、我々一般大衆には理解できないが、渡部昇一先生が取り上げる本は大衆向けだから、我々でも理解できる。
その大衆向けの本を翻訳の達人自らが翻訳するのだから、非常に分かりやすい形になっているという点も見逃せない。中学生以上の国語力があれば理解できるレベルにまで噛み砕いている。つまり、七割八割の一般大衆ための本なのだ。渡部先生のこうした仕事は、大いなる菩薩行といえるだろう。
あるいは、歴史観が、非常に素晴らしい。これも本業ではない部分だ。渡部先生の歴史観を学び、日本人としてのプライドを取り戻したという人が多い。僕もその一人だ。僕が受けた義務教育は、やはり「反日的」な思想が根底にあったと思う。実際、僕は、日本ほど悪い国はないと思っていた。日本人は、非常にスケールが小さいと思っていた。天皇制なんか害悪だと思っていた。・・・・・・、そういう教育を受けてきたのだ。
そんな僕も、谷口雅春先生の日本主義的な思想を学ぶ過程で、少しずつ少しずつマインド・コントロールから解放されつつあった。とはいえ、それでも「日本は悪い国、日本人は悪いことをしてきた」という刷り込みが強烈で、心のどこかで日本を認めたくないという思いがあった。そんな時に渡部昇一先生の歴史観と出会ったのだ。
渡部先生は、事実を淡々と列挙し、そこからどのように考えればよいのかというヒントを次から次へと提示する。愛国的な人というのは、往々にして、熱狂的になり過ぎてひんしゅくを買うものだが、渡部先生はどこまでも中道路線だ。論点を絞り込み、単純化して、論理的に突き詰めていく。静かに燃える炎のようだ。しかし力強い。安定感がある。巧みな例え話で、いつの間にか、「なるほど」と納得させられてしまう。そして、いつの間にか、僕は日本が大好きになっていた(^^;。
漫画家の小林よしのり氏が、「戦争論」を発表して話題なりましたが、あの手の歴史観を発表している人は、みんな渡部先生の歴史観に学んでいるのですね。僕は、渡部先生が道を切り開いたといっても過言ではないと思っている。渡部先生が不撓不屈の精神で戦い抜いたから、後に続く者たちに道が開けたのだ。渡部先生は、昔、自分の意見をハッキリ述べたことによって、マスコミとか大手出版社から集中砲火を浴びている。普通、新聞社などを敵に回すと、ほぼ百パーセント、潰されてしまうものだ。ところが、渡部先生はしぶとかった(^^;。潰されるどころか信念を貫き通し、今や、多くの識者たちに賞賛される存在となった。長く孤独な闘いが、ようやく実を結んだのだ。
さて、大川先生が発表した「幸福の原理」の一つに、「知の原理」というものがあります。おそらく、この「知的生活の方法」という書物が、元ネタではないかと思われるのです。特に第一章「自分をごまかさない精神」は、神理探求者の根本精神そのものであります。分からないことを分かったフリをしない。分かっている部分と分からない部分を、ハッキリ自覚する。これが「本当に知る」ということだ。こうした知的正直を大切にする。これが「知の原理」の核だと思います。
第二章では古典について書かれている。
古典とは、昔の本だけではない。古典の本質は、「繰り返して読むに耐える書物」。だからこそ、千年後二千年後まで読み継がれていくものなのだ。つまり、現在発表されている書物の中にも、何パーセントかは、古典の本質を秘めている書物があるということ。新しい本でもいいのだ。それが千年後も残っていれば古典になるのだ。何度でも繰り替えして読みたい本、実際何度も読み返している本、何度読んでも感動を新たにする本、要するに愛読書こそが私たちにとっての古典だということ。
愛読書をみれば、その人がどのような人物であるかが或る程度わかる・・・・・・。実際その通りだと思います。やはり自分の心にピッタリ来る本でなければ、繰り返し繰り返し読みたいとは思わないものです。悪魔崇拝の人の愛読書が「新約聖書」だということはあり得ないでしょう(^^;。「新約聖書」が好きでたまらない人は、やはり、イエスキリストの教えにしびれ、その教えを実生活に活かしたいと思っている人です。そういう感じで、だいたい分かってしまうものです。
第三章では「本」について書かれています。ここでも非常に素晴らしい意見が書かれています。たとえば、本は”身銭”を切って買うものだと主張しています。宗教なんかでは献本とかいって、教祖の本をプレゼントして、信者を増やそうとしているようです。しかし、ほとんど効果がありません。「ブックオフ」(※古本屋さん)に直行です(^^;。それは身銭を切って買った本ではないからです。ただで手に入れた本を真剣に読む人は、あまりいないのですね。
ああ、この本が欲しい。でも予算がない。どうしようか。あきらめようか。いやでも欲しい。読んでみたい。自分のものにしたい。マイ・ライブラリーの一冊にしたい。食事を抜こう。よしそうしよう!・・・・・・、こうした葛藤を越えて、食事を抜いてでも手に入れた本ならば、一字一句でもおろそかにしないものです。
本なんて、図書館で借りて読むことができるのだから、わざわざ身銭を切る必要などないと考える人も多い。しかし、手もとにあるのとないのとでは大きな違いであります。愛読書というのは、手もとにあってこそ愛読書です。「愛読書は、聖書です。でも、手もとにはなくて、いつも図書館で借りています」・・・・・・(^^;。こういうのは欺瞞です。やはり、身銭を切って、手もとに置くこと。そうでなければ、その本から本当に良きものを吸収することはできない。本当に素晴らしい本は、一度読んで、「はい、わかりました」というようなものではない。手もとにおいて、何度も何度も繰り返して読む。読むたびに新しい発見がある。そうしたものだと思います。
第四章では、知的空間と情報整理。ここもおもしろいです。家の設計図なんかが紹介されていて、非常におもしろい。感心します。「情報整理」に関しては、パソコンが普及した現在、古くさい感じがしますが、それでもいくつかのヒントがあると思います。
第五章は、「知的生活と時間」。ここも素晴らしい(^^;。まあ、どこもかしこも素晴らしいのですね。最終章は「知的生活の形而下学」。ここもいい。至れり尽くせりの内容です。ということで、結局どのページも素晴らしいと思います。
僕は最初、「知的生活の方法」という題名を見て、近寄りがたいものを感じた。エリートの読む本に思えたからだ。そんなものはクソクラエだ!と思っていた。ところが、読んでみると、まったくそんなことはなかった。それどころか、われわれ凡人のための本ではないかと思った。三十年前の本だが、ほとんど色褪せていないと思う。この本も古典となる本だろう。 スポンサーサイト
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大地を枕に-元気ですか? 僕は元気です。- |
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Author:大和春道 |
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