10.『高橋信次霊言集』を読む⑩ :: 2006/11/25(Sat) |
20061125 00211 10.『高橋信次霊言集』を読む⑩
六章 心と肉体の関係 より
肉体は舟、心は船頭
「心」こそが人間の本体であるということです。「心」が「肉体」という舟に乗り込んで、この世の人生航路という海原で航海しているということなのです。だから「肉体」のことを「肉体舟」と表現することがあります。
舟は、船頭さんが乗り込んで、そして操縦することによって、はじめて、目的を持った動きをすることができます。舟自体には意志がありませんから、舟が自分の意志で、日本からアメリカまで航海するということあり得ないのです(^^;。しかし、船頭さんが乗り込んで、アメリカに向けて出発したら、そのようになるのであります。
舟に船頭さんが乗っていることを知らない動物たちは、舟という生き物が、目的を持って、日本からアメリカに移動していると思うかもしれません。しかし、実際は、舟には意志はなく、船頭さんの意志によって動かされているだけなのです。船頭さんが舟からいなくなってしまったら、舟は、ただあてもなく波間を漂うだけなのであります。
しかし、船頭さんが主人公でありますが、舟という乗り物がなければ、船頭さんはアメリカまで行くことができません。また、船頭さんが、舟を自由自在に操るといっても、事故が起こって、舟に大きな穴が開いてしまったりすると、船頭さんがどれだけ頑張っても舟は沈んでしまいます。そうなると、船頭さんは、アメリカへ行くという目的を達成することができなくなってしまうのです。
このように、舟というのは、船頭さんの目的を達成するための大切な道具なのです。無茶苦茶な扱いをして、壊れて沈んでしまったら、もう利用することはできなくなります。だから大切に扱う必要があるのです。ただ、大切に扱っていても、やがて舟に寿命が来て、使いものにならなくなってしまう時が来ます。しかし、その時が来ても、主人公である船頭さんはピンピンしていて、やがてまた、別の新しい舟に乗り込んで、アメリカへ行ったり、カナダに行ったすることができるのです。
「心」と「肉体」の関係というのは、船頭と舟の関係と同じなのであります。「心」とは「肉体舟」を操る船頭さんなのです。「心」が乗り込んでいなければ、「肉体」というのは、車庫に眠る自動車と同じです。勝手に動くということがないのですね。「心」が「肉体」に乗り込んで、そして、「心」が操縦して、「肉体」を動かしているのです。「肉体」は「心」の乗り物であるということです。「心」こそ人間の本体だということであります。
心は魂の中心部分である
「魂」は別名「光子体」といいます。「肉体」と同じサイズであるということだそうです。人間が死ぬと、「光子体」が、「肉体」から離脱してしまうのですが、その「光子体」を霊視すると、「肉体」とほとんど同じだということです。内臓の諸器官、目、鼻、口、耳、手足、全て揃っているそうです。だから、「神理知識」のない人が死ぬと、死後も体があるし、考えることもできるので、「肉体」が滅びていることに気づかない場合があるようです(^^;。でも、実際は、「肉体」は消滅して、「光子体」そのものになっているのです。自分のほうからは、この世の人々が見えるのだけど、この世の人々には、「光子体」となった姿を、肉眼で視ることはできないのです。
たとえば、肉体が死んで、「光子体」が、「肉体」の上方に、抜け出たとします。すると、上方から、「魂」の抜け殻である「肉体」、かつての自分自身を眺めることになって、わけが分からなくなるそうです(^^;。俺は今、ここにいるのに、なぜ、下のベッドに死んだように横たわっているのだ?あれが俺なのか?俺が俺ではないのだろうか?あれが俺なら、俺は誰なんだ・・・?(^^;。
ま、これが「もう一人の自分」というヤツです。つまり、地上の人間は、「肉体」と「光子体」という二つの体を持っているのです。そして、「光子体」こそが本当の自分で、「肉体」というのは、地上における乗り物であったということなのです。そして、地上の「肉体」の寿命が尽きると、本体である「光子体」は、肉体から離脱して、霊界に帰るということなのです。
次に「心」について説明しておきます。地上の私たちは、「脳」で、色々と考えたり、感動したりしていると思っています。しかし、「正法神理」では、そうではないと言います。「脳」というのはコンピュータのようなもので、それを使っているのが「心」なのだということなのです。「脳」というものには、意志とか思考する力がないのです。「脳」は道具なのです。機械なのですね。大工さんが、鑿を使って巧みに木を彫っていきます。大工さんが、使いもしないのに、鑿が自分の意志で木を彫りだしたなんて話しは、聞いたことがないのであります。それと同じように、「心」が「脳」を使わない限り、「脳」が意志を持って、色々考えたり、思ったりすることはないのです。
何かに感動した時、私たちは、胸のあたりで感じているような気がするのではないでしょうか。ドキッとするとき、何処がドキッとするでしょうか。頭でしょうか?違いますね、胸のあたりがドキッとします。こうした感動した時というのは、「脳」というコンピュータを素通りしてしまうのか、どういう仕組みかよく分からないのですが、胸のあたりで直接感じ取るのですね。これは、「心」というものが、「光子体」の胸のあたりにあるということなのです。この「心」こそが、「光子体」、すなわち「魂」の中心部分であります。要するに、「心」とは、私たち「そのもの」だということなのです。「心」が私たちなのです。「心」が人間だといってもいいのです。
この「心」が、感じたり、考えたり、思ったりしているのです。「光子体」も「肉体」も、「心」を乗せる「舟」なのです。私たち(つまり心)は、「光子体」や「肉体」という「舟」に乗って、この世とあの世で修行しているということなのであります。
光子体とは何か
「光子体」とは、要するに「神の光」であるということです。三次元的なイメージで説明するとするならば、神の光の粒であります。それは、物質ではありません。従って、顕微鏡で確認することはできません。しかし、イメージとしては、小さな粒です。これが、色々組み合わさって全てが生み出されてくるというわけであります。
さて、霊界には、「霊太陽」というのが輝いているようです。この「霊太陽」から放たれている光が「光子」だそうです。この「光子」は「神の光」なのです。人間というのは、「神の光」によってできているのです。「心」も「魂」も、全て「神の光」からできているのであります。要するに「神」と同じものでできているのです。人間は「神」と同質なのです。人間が、ロボットを創ったとします。しかし、人間とロボットは、同質ではありません。だから、ロボットは、人間による創造物ですが、「人間の子供」と言うことはできないでしょう。
人間の体から分かれた赤ちゃんだけが「人間の子供」と言えるのですね。神そのものである「神の光」によって創られている人間は、単なるロボットではないということです。神様の体から分かれた、本当の「神の子」なのです。「神」そのものであると言っても間違いではないのです。原料:「神の光」100%ですから(^^;。
あと「霊子」という言葉が出てきましたが、これは、「光子」が凝集したものだいうことです。そして、この「霊子」が、さらに凝集して「物質」が生み出されるのだそうです。イメージ的には、目に見えない水蒸気が冷却して水となり氷となって行くような感じです。物質創造に関しては、解明されていない部分が、まだまだたくさんあって、そうした部分については、「基礎からの神理」の領域を超えているので、深入りしないことにします(^^;。
悟りの段階によって光子量は異なる
「悟り」の程度に応じて光子量が変わるというのは、要するにこういうことです。 「悟り」とは、本当の自分自身を知ることです。本当の自分とは、心の奥の光り輝く「神の子」です。私たちは己の悪想念によって、心に曇りを作り、光り輝く本当の自分が分からなくなってしまっているのです。だから、まず、心のスモッグを取り除かなければならない。そのための唯一の方法が「反省」。「反省」よって、心のスモッグを取り除く。心のスモッグは、空の雲と同じことなのです。厚い雲が、空を覆っていると、地上に届く太陽の光はわずかです。雲がなくなればなくなるほど、太陽の光は地上にたくさん届きます。
これが、光子量が変わるという意味です。「悟り」の程度に応じてとは、心を覆うスモッグの量に応じてということです。スモッグが少なければ、「霊太陽」の光をより多く受けることができるということです。より多く受けることができる人、それが「光の天使」と呼ばれる人々です。彼らは、反省によって、心の曇りを取り除いた人々です。そして、本当の自分に目覚め、愛に生きている人々なのです。
彼らは、より多くの「神の光」を受け、それを独り占めしているわけではないのですね。まるで太陽のように、一切の見返りを求めることなく、また、出し惜しみすることなく、「神の光」を、周囲に放ち続けているのです。放出しても放出しても、「霊太陽」からの「神の光」の供給は、無限供給でありますから、枯渇するということがないのですね。出せば出すほど、流れ込んでくるのです。これが「愛の循環」であります。拡大再生産のように、どんどんどんどん、「愛」は大きくなって行くのです。しかし、「神の光」を独り占めした時、「愛」は死んでしまうのです。
「愛の循環」、これが「光の天使」たちの生き方なのです。そして、「愛の循環」の実績が、彼らの霊格を、さらに高めて行くのです。そして、霊格が高くなれば、「神の光」を、より多く受けることができるようになり、さらに、光子量が増えて行き、当然、「神の光」の放出も増えて行くということであります。
結局、「悟り」と「愛」というは、両輪なのですね。正比例しているといってもいいでしょう。「悟り」だけ高くなって、「愛」はからっきし、「悟り」は低いけれど、「愛」の実践は菩薩並、こうしたアンバランスはあり得ないのです。「悟り」が深まれば、必ず「愛行」も素晴らしいものとなる。「悟った、悟った」と大言壮語していても、いつまでたっても山にこもったまま。山奥で一人、心の平安を楽しんでいる。神の光を循環させることもなく・・・。こういうのは天狗さん、仙人さんです。本当の「悟り」ではないのです。ここを間違ってはいけないと思います。
また、「愛だ、愛だ、愛こそ全てだ」と、大言壮語するけれど、少しも「反省」する気持ちがないならば、本当の愛の実践をすることができないのです。愛の押し売りになったり、溺愛になったり、厳しいだけの愛だったり・・・・・・。「悟りの知恵」という裏打ちのない「愛」、これも、やはり本当の「愛」と呼ぶことはできないのです。だから「愛」と「悟り」は別々に考えるよりも、両輪だと考えるべきなのです。究極において一致しているのです。この両輪のバランスが取れている時、中道を真っ直ぐに進んでゆくことができるのであります。
さて、「オーラ」というのは、いわゆる後光です。肉眼で視ることはできません。霊的な光です。光子量の多い人ほど「オーラ」も大きいのであります。肉眼では見えないけれど、霊視できる人には、ハッキリ見えるそうです。まして、神の目を誤魔化すことなどは、絶対にできないのです。どんなに表面を取り繕ってもダメ。きれい事を演説してもダメ(^^;。「オーラ」は、その人の心の本当の状態そのままを表しているので、「オーラ」を視ることができる人の目を誤魔化すことはできないのだそうです。口先だけで、自分のことを「如来である」と宣言しても、「オーラ」が出ていない場合、それは嘘なのですね。また、カツラを外して、ピカピカ光っているのは、これは違います(^^;。
ただ、「オーラ」を視れば、その人の状態が一目瞭然とはいうものの、この世において霊視能力というものは、特殊な能力なのですね。万人の価値基準とはならないのです。
宗教の教祖などは、よく、「オーラ」で人を判断します。「あの人は、オーラが出ていない」とか「オーラが暗い」とか言って、他人を批判します。すべての人が共有できる判断基準によってではなく、自分だけが見えるという「オーラ」によって・・・・・・。これは非常に危険なことなのです。「そんなわけのわからないもので、判断されてたまるか!」ということです(^^;。その教祖にまったく邪心がなく、「光の指導霊」に導かれているのならば、そうした「オーラ」による判断も信じられるのですが、邪心があって、「光の指導霊」に導かれていない教祖さんであっても、「オーラがどうのこうの」という話しを、適当にすることができるのですね。そういうものをまともに信じてしまうと大変なことになるのです。
ちょっと違う例え話ですが、歴史上の偉人を批評するときに、よく霊能者は、「○○は地獄に堕ちています」なんて軽々しく言います。でも、そこで終わってしまうのですね。言いっぱなしです。こういうのはダメです。なぜ、地獄に堕ちているのか?この「なぜ?」が大切なのですね。地獄に堕ちている理由をハッキリ示す。ここまで批評せずに、ただ霊眼で○○を視た時、そう見えたからという理由で、「○○は地獄にいる」なんて言うだけならば、あまりにも無責任なのです。こういうのは「欠席裁判」といって、やりたい放題できるのですね(^^;。だから、理由を明らかにすることは、最低の礼儀だと思うのです。
「オーラ」で他人を判断する人たちも、やはり、理由を明らかにするべきなのですね。特に相手の評価を落とすような批判をする時には、絶対に誰にでも理解できるような理由を述べることが必要なのではないかと思います。「何処が間違っているか?」を指摘できないのに、「オーラ」を理由にその人を貶めるのは、ルール違反なのです。これは、雰囲気で人を裁いているのと同じなのですね。もし、裁判の判決理由が、「裁判長の霊視により有罪」なんてものだったら、いったい誰が納得するでしょうか?ところが、宗教の世界では、それがまかり通ってしまうのです(^^;。
オーラが見える人は、その点を注意しなければならないでしょう。なぜ、オーラが、そう見えるのか?人を批判するのならば、それを解明してからにするべきなのです。また、オーラ話しをする教祖さんの言葉を真に受けてしまう人も注意しなければなりません。たとえば、教祖が「○○は地獄に堕ちている」といったとする。でもそれを信じてはいけない。教祖さんに理由を聞くべきなのです。そして、納得のいく答えが返ってくれば、信じるのも良いでしょう。納得できなければ、判断を留保する。参考意見として聞いておくだけにする。どうか、鵜呑みにしないようにして下さい。
肉体の支配者は霊子線でつながっている光子体だけ
「肉体」と「光子体」という二つの体を一本の「霊子線(※シルバー・コード)」がつないでいる。そして、その「霊子線」を通じて、情報が交換されているということです。このコードは一本だけです。一つの「肉体」に、何本もコードをつなげることはできないのです。一つの「肉体」の支配者は、コードによってつながっている「光子体」だけなのです。
「憑依」ということを聞いたことがあると思います。地獄霊や動物霊が、地上の人間に乗り移ることです。しかし、これは、完全に乗り移るということではないのであります。「肉体」の真の支配者は、「霊子線」でつながっている「光子体」であって、地獄霊たちは、その「肉体」と「霊子線」によってつながっているわけではないからです。このことを、よく理解しておく必要があるのです。もし、「肉体」と「光子体」が、「霊子線」でつながっていないのならば、地上の人間に「個性」というものがなくなってしまう可能性があるのです。
「肉体」と「光子体」が、気楽に入れ替わることができるのなら、もう無茶苦茶になってしまいます(^^;。一つの「肉体」に、後から何本も「霊子線」をつなぐことができるのならば、統一した人格というものがないのと同じことです。何重人格にもなってしまうのですね。誰が誰なのか、誰が肉体の支配者なのか、それが分からなくなるのですね。昨日言ってたことと、今日言ってることがまったく違う。「光子体」が入れ替わってしまうと、そんなことが日常茶飯事になってくる。「霊子線」でつながれているから、「私は私」、「あなたはあなた」と、安心して接することができるのです。「私」は「あなた」にはなれないし、「あなた」は「私」にはなれない。それは「肉体」と「光子体」を結ぶ「霊子線」というのは一本だけだという原則があるからです。コンピュータのコードのように簡単に付け替えることはできないのですね(^^;。
「霊子線」が切れたら、その「肉体」は、単なる「物質」となって、どんどん崩壊して行きます。その「物質肉体」に、他の誰かが、その「肉体」に、「霊子線」をつなぐことはできないようになっているのです。それができるなら、地上に未練の残っている地獄霊たちが、次から次へと甦ってくることでしょう(^^;。そういったゾンビのような存在が、どこかにいるかも知れませんが、ほとんどいない(^^;。それは、「霊子線」の仕組みが、そのようになっているからなのです。
ここに書かれているように、想念の曇りの部分に地獄霊が取り付いてくるのです。波長同通の法則、類は友を呼ぶ法則です。しかし、のこりの健全な部分に取り付くことはできないのです。地獄霊にできることは、その人の弱点につけ込むことだけなのです。地獄霊の憑依した部分は、やはり調子が悪くなるそうです。肩こりや、頭痛などの具体的な症状が現れてくるようです。しかし、その程度なのです。完全憑依という言葉がありますが、たとえ、そうした状態であっても、依然として「肉体」の真の支配者は、「霊子線」によってつながっている自分自身なのです。
私たちの「肉体」から、私たちの本体である「光子体」を追い出して、彼らが私たちの代わりに「肉体」の支配者になることは絶対にできないのです。あくまでも支配者は各人なのです。だから、あまり、地獄霊を恐れてはならない。「恐怖」は、精神エネルギー奪います。精神エネルギーが低下してしまうと、地獄霊が喜びます。居心地が良くなるのですね。
恐れないことです。「肉体」の支配者は「霊子線」でつながっている自分自身であるということ、これを信じることです。彼らはお客さんです。こちらが、呼び込んでいるのです。心に不調和をつくると、類は友を呼ぶということです。だから、主人公である私たちが、間違った心を改めれば、彼らは、来たくても来ることができなくなってくる。私たちは、彼らをどうこうしようとする前に、自分自身を正すことなのです。彼らを引き剥がそうとするのは、本末転倒なのです。自分自身の想念が彼らを呼び寄せているのですから、彼らに引き取ってもらいたいのであるならば、自分自身の想念を改めるのが筋なのであります。
憑依の原理について
「あの世」は、「類は友を呼ぶ」法則の世界だそうです。「悟りの段階」が同じ者同士、階層を創っているのです。泥水をコップに入れて、しばらくしてから見ると、泥が沈んで、上の方に行くほど澄んだ水で、下の方に行くほど泥が多いです。これは自然の法則ですね。必ずそうなります。「あの世」も、そうした自然の法則が働いているのですね。高い「悟り」の者は高級霊界に住み、「悟り」は高くはないけど、心の清い者、浄化されている者は、中級、あるいは低級霊界に住み、心の醜い者は、地獄界に住むということです。「この世」の重力と同じような力が、「あの世」でも働いていて、上に行くほど高い「悟り」の階層で、下に行くほど低い「悟り」の階層になっているのです。
また、同じ階層の世界、たとえば、六次元という世界の中でも、「類は友を呼ぶ」法則が働いています。同じ高さの「悟り」なのですが、その中でも、似た者同士は集まるのですね。例えば、芸術家は芸術家同士集まって村を作って暮らしている。科学者は科学者同士、坊さんは坊さん同士・・・、といった具合です。大雑把に分けると、七つの系統に分かれます。
「神の七色光線」というのですが、大抵の人間は、その七色のどれか一つに属しているものなのです。そして、同じ光線の人々同士が集まっているということなのです。本来「神の光」は無色透明なのですが、その無色透明の中に、七つの色が含まれているのです(コメジルシ実際は無数の色が含まれている)。だから、プリズムを通過すると七色に分光します。「あの世」とは、神の七色の光線が照らし出している世界なのです。
九次元宇宙界という世界は、プリズムの役割も果たしているのです。十次元の世界から、全てを包含している無色透明の「神の光」が降りてくる。それが、九次元宇宙界を通過すると、七色に分光して、そして、八次元、七次元、六次元と下位の世界へを広がって行くのです。だから、「あの世」とは、九次元宇宙界を頂点とした富士山のようなイメージです。上に行けば、頂上の一点に集束されてしまうし、下に行くほど、広がりのある世界なのです。
このように「高い」、「低い」の階層と、神の七色光線による垂直的な縦割りによって、「住み分け」があるのです。「悟りの段階」と「神の七色光線」の関係によって、「あの世」の住所が決まるということですね。そして、一つの住所の近所には、大体、似たような心境の人々が暮らしているということ、これも「類は友を呼ぶ」法則であります。
また、地獄界とは、その七色の霊界の富士山を、くるっと、ひっくり返した、逆さまの富士山のイメージです。下に行くほど集束して行きます。そして、その収斂している一点に君臨しているのが地獄の帝王サタンであります。地獄の場合、「神の光」が射していないので、「神の七色光線」による住み分けはありません。しかし、やはり、「類は友を呼ぶ」法則の世界なのです。争いを好む者は阿修羅地獄に、色情に狂った者は血の池地獄に、といった感じで、生前の生き方が、地獄での住所を決定するのです。
ま、これらは、あくまでもイメージです。実際は、そんな単純なものではないようです(^^;。
ともかく、地獄は、「神の光」が射し込んでこんで来ない世界なので、暗く、そして寒い世界だそうです。焦熱地獄なんてのもあるそうですが(^^;。とにかく厳しい環境の世界なのですね。だから、地獄霊たちは、とにかくそこを逃れたい。しかし、天国には戻ることはできません。波長同通の法則ですね。地獄霊の波長と天国の波長は、あまりにも異なっているということです。では、何処へ逃げ出すか? それが地上だということなのです。地上の人間が不調和な想念を発すると、「これ幸い」とばかりに、引き寄せられて行くのです。
彼らは、「波長同通の法則」を利用して、地上の人間の不調和な想念部分に、取り付いて来るのです。これが「憑依の原理」です。「波長同通の法則」、「類は友を呼ぶ法則」なのです。地上の人間が地獄的な想念を発するから、地獄の亡者たちが、この地上にやってくることができるということです。だから、地上の人間の悪想念がストップすれば、地獄霊たちは、地上の人間に憑依することができなくなってしまうのです。
それは、地獄霊たちにとっては死活問題なのですね。一時逃れの場所がなくなってしまう。「これはつらい」ということです。例えば、酒飲みだった地獄霊は、地上の人間に憑依して、その人にお酒を飲ませることで、自分自身もお酒を飲んでいるような感覚を味わうことができるようですね。だから、今までの飲めなかった人が、憑依されて、急に酒が飲めるようになるというようなことがあるそうです。ところが、地上が浄化されてしまうと、もう地獄霊は出て来れられなくなってしまい、苦しいだけの地獄に閉じこめられてしまうというわけです。
だから、彼らは、この世の縄張りを確保するため、増大して行くため、躍起になっているのです。人々に憑依して、悪想念を増幅させて行こうとしているのですね。例えば、怒りっぽい人間には、「波長同通の法則」により、怒りっぽい地獄霊が憑依します。すると憑依された人間は、ますます怒りっぽくなって行くのです。「神の光」も増幅していきますが、悪想念も増幅して行くのです。今までは一人分の悪想念が、憑依によって、二人分になるといった感じでしょうか(^^;。しかし実際は、相乗効果で増幅して行くようです。自分の力で怒りを押さえきれなくなってしまうのですね。
そういう時がないでしょうか。「どうしてこんなに腹が立つのだろう」と、自分でも不思議に思うぐらいに、なぜか、どうしようなく腹が立つ時・・・。あるいは食欲をどうしてもコントロールできない時・・・。とにかく一食でも抜くのが怖い。とにかく食べたい。さっき食べたのに、また、何か食べたい。もう少し我慢すれば夕食なのに、どうしても我慢できない(^^;。もしかすると、地獄霊が怒りを増幅させているかも・・・。グルメな地獄霊が憑依しているかも・・・(^^;。ま、冗談ですが、そうした感じですね。地獄霊たちは、そのようにして地上の人間をそそのかして、そして堕落させて、地上での縄張りを拡大させて行こうとしているのです。
彼らにとっては、「正法神理」が広まることほど厄介なことはありません。「正法神理」を人々が実践したら、地上は浄化されて行くからです。だから、彼らは、「正法神理」が広まらないようにする為に、必死になります。「正法が説かれる時、魔が競い立つ」というのは、そういうことなのです。光が強くなってくると、魔の抵抗も激しくなってくるのです。
地獄霊の心理状態の一例
「他人の不幸は蜜の味」なんて言葉があります(^^;。こういう心理状態にある人は、幸福感が乏しいはずです。不幸感覚が強いのですね。だから、「自分だけ不幸なのは、不公平だ。みんな不幸になればよい」という考えが心のどこかにあるのであります。この程度で、とどまることができたなら、大丈夫なのですが、度を越してくると、他人が不幸になるように、色々と陰でコソコソやり始めるようになります。たとえば、お金持ちの家の壁に落書きするとか、車に傷をつけたり、パンクさせたり(^^;。こうしたつまらないことをやって、相手が怒ったり、悲しんだりするのを想像して、清々しているようになっていく。こういうのは、もはや地獄的な考え方なのです。
地獄霊は、地獄の辛さから逃れるために地上に這い出てくる場合もありますが、それとは別に、「自分が不幸だから、地上の人間も不幸にしてやりたい」という屈折した考えを持って、地上に出てくる者たちもいるということです。そして、誰かを不幸にして、ホッとするのですね。また、不幸な仲間が一人増えたと。誰かが不幸になることで、自分の不幸が軽くなるような錯覚を起こしているのです。
たとえば、叩き上げの社員などは、色々実際に体験して、頭を打って、痛い思いをして、のし上がってきます。ところが、現実は厳しく、後輩のエリート社員が、緻密に計画を立て、前もって調べ、学び、そして事に当たり、スイスイと叩き上げの社員を追い越して行くことがあるのです。こうなると、叩き上げの社員は納得できないのですね。自分は苦労に苦労を重ねて、やっと今の地位を得たのに、このクソガキは、苦労もせず、理屈ばっかり述べて、わしの地位を追い越していった。許せん!ま、こうした思いにとらわれてしまって、恨んだり、憎んだり、いたずらに批判してみたり、陰で悪口を言って、陥れようとしたり・・・(^^;。あるいは、苦労させようとして、無理難題を吹っかけたりやり始める。こうなってくると、もう地獄的な想念です。こういう精神状態は確実に地獄霊を呼び寄せてしまうということです。
「自分も苦労したのだから、あのクソガキも苦労すべきだ」・・・・・・、これはある意味正論なのです。エリート社員というのは、やはり、現場の苦労を知りませんから、一般人の気持ちがわからない。そういう面で、批判されても仕方がない点があると思います。しかし、それはそれであります。やがてエリート社員も頭を打つときが来るのです。それなのに、「よし、ここは自分が鬼軍曹になって、ヤツに苦労させよう」などいう気持ちになって、陰険なことをやり始めると、その人自身が地獄霊に憑依されて行くのですね。地獄霊と同じ心理状態だからです。
これはよく似た心理状態です(^^;。やがて、「波長同通」であります。そして、陰険さがエスカレートして行くのですね。つまらんことにゴチャゴチャと文句をつけはじめる。そして、表面の意識では、「あえて鬼軍曹に徹している」つもりですが、実際は、いじめて、憂さを晴らしているのです。その後ろで、地獄霊も「もっとやれ、もっとやれ」と囃し立てている・・・・・・。そして、さらに陰湿さが増して行く。
学校のクラブ活動での「しごき」などにも、こうした心理状態があります。新入部員の時にいじめられた人で、先輩になると、後輩をいじめる人がいます。これも「自分は新入部員の時に、徹底的にしごかれた。だから、先輩になった今、後輩をしごかないと損だ」という心理状態です(^^;。「しごき」というのは大切な面があるのですが、心理状態が間違っていると、地獄に通じてしまうのですね。復讐のためにやったり、憂さ晴らしのためにやったりしていると、エライことになっていきますから、注意しなければなりません。
肉体管理で地獄霊を跳ね飛ばそう
「肉体」と「心」は、相関関係なのです。「霊子線」によってつながっているのです。「心」こそが私たちの本体であり、その「心」が病むと、その影響が「肉体」にもあられてくるのです。また「心」が病むと、その部分に地獄霊が憑依してきて、さらに「心」が病んでいきます。そして、それがまた「肉体」にも影響を与えていくのです。
逆に、「肉体」を酷使したりして痛めつけてしまうと、それが「心」に影響を与えていきます。極端な例ですが、例えば交通事故で半身不随になってしまったとします。すると、たいていの場合、「心」も病んで行くのです。
このように、相関関係なので、どちらか一方が悪くなると、悪循環に入ってしまって、「心」も「肉体」も両方ともどんどん悪くなっていくことが多いのです。もちろん、良いほうの循環もあります。「心」が明るければ、「肉体」も健康になって、「肉体」が健康になれば、さらに、「心」が明るくなる。こうした好循環もあります。
私たちは、悪循環を断ち切って、好循環の方に持って行く工夫をしなければならないのです。それができなければ破滅して行くだけだということなのです。たとえば、「肉体」が病気になったとする。すると「心」も暗くなります。こうなると破滅する方向に循環し始めているのです。これを断ち切るためには、「心」を暗くしないような工夫が必要なのです。
「病気で苦しんでいるのに、心を明るくするなんて無理に決まってる!」と叫ぶ人も多いと思います。実際そうだと思います。しかし、だからといって「心」まで暗くしてしまったら、悪循環に入ってしまうのだから、そのままにしておいて、破滅してしまっても良いのでしょうか。それが嫌ならば、難しいことだけど、何とか工夫して、意識的に、「心」を明るい方向に向けるように努力することが大切なのです。
「心」と「肉体」の両方が健全な時、地獄霊は人間に手を出すことができないのです。「心」と「肉体」の二刀流です。しかし、どちらかが、不調和になると、そこにスキができてしまう。地獄霊は、そこを巧みについてくる。
たとえば、睡眠不足や過労などで「肉体」が弱ってしまうと、「心」と「肉体」の相関関係によって、「心」の方も弱ってくるのですね。そして、そうした弱った「心」の状態になると、どうしても健全な発想が出てこなくなって、暗い不調和なことを考えるようになって行くものなのです。そうすると、その部分に地獄霊が憑依してくるということなのです。だから、「肉体管理」というのは、非常に大切なことなのです。「健全な肉体に健全な魂が宿る」と言いますが、これもまた真理なのです。
「心」と「肉体」はこうした関係になっているのですね。宗教的な人は、ともすれば、肉体を軽視する傾向にあるのであります。心、心と心にとらわれてしまう。「心」こそすべてだ、「肉体」など、「心」さえ調えれば、どうとでもなるのだ。ま、こういうふうに考えてしまうのです。しかし、「肉体管理」をキチンとすることで、「心」を調えて行くというやり方も、決して間違いではないのです。結局、循環して行きますから、同じことなのですね。
「肉体管理」とは、具体的にいうと、
以上の三点です。この三点には、常識として注意を払うことです。この三点が極端にデタラメになって行くと、やがて、「精神論」、「根性論」では、カバーしきれなくなってしまいます。二日や三日、不眠不休、食事抜きとなっても、精神が集中していれば、何とか乗り越えられるでしょう。しかし、それが、十日続き、一ヶ月続き、一年、十年と続くとしたら、根性だけでは乗り越えられないのですね。途中で倒れてしまいます。
また、規則正しい、節度ある日々の生活、これも大切だと思います。これを心掛けていると、心の方も自ずと健全になってくるのです。理想的なパターンとしては、朝、五時、六時に起きて、七時ぐらいまでに朝食を済ます。昼食は十二時ぐらい。夕食は六時ぐらい。こうした規則正しさと、朝昼晩の食事の間隔が大切なのです。そして、夜は十一時ぐらいまでには寝る。ま、人間の肉体には、体内時計のようなものがあって、一定のリズムを刻んでいるようなのです。何千年も昔から、こうしたリズムで生きてきたのですから、それを崩してしまうと、肉体が不調和となって、その結果、「心」も病んで行くことになると思うのです。
たとえば、夜行性の動物の生活を、無理矢理に、昼夜を逆転させてしまうと、どうなるでしょうか?恐らく、病気になって早死にしてしまうことでしょう。人間も同じことではないでしょうか。現代は、職業によって、昼夜が逆転してしまうことになるのですが、そういう場合は、やはり、普通の生活をしている人以上に「肉体管理」をしっかりする必要があると思います。
「肉体管理」をおろそかにすれば、やがて「肉体」は病んで行く。「肉体」が病めば、「心」も病んで行く。「心」が病めば、地獄霊が憑依してくる。地獄霊が憑依すれば、「心」はさらに不調和となり、その結果、病気がさらに悪化して行く・・・・・・。こうした悪い連鎖反応が無限に続くことになるのです。この連鎖を何処かで断ち切らなければ、破滅してしまうということです。
この悪しき連鎖反応で最も困るのは、地獄霊の憑依なのですね。地獄霊は悪意を持っている場合があるのです。私たちを不幸におとしいれて、それを見て喜んでいるようなところがあります。そうした悪意を持った相手が絡んでくると非常につらいものがあるのです。「肉体」を酷使して、病気になったとしても、地獄霊の憑依がなければ、しばらく休息していれば、また、体力が回復して元気になるのです。ところが、地獄霊が憑依してくると、心の不調和を増幅させられますから、回復するどころか、どんどん悪化させられてしまうのです。
だから、我々は、何とかして地獄霊の憑依を避けたいのであります。そのために、最も簡単にできることが「肉体管理」だということです。宗教を志す方の意外な盲点となっているのですね。「肉体」を強化することが、「心」を守るのであります。適度な睡眠、適度な運動、適度な量の食事、これを守ることが、巡り巡って、地獄霊の憑依から身を守ることになって行くのであります。
コメント (1 件)
大和 春道 - 2007年 4 月 14 日 ここから↓は、 『高橋信次霊言集』を読む その56 のコメントです。
さらん(‾???) 2006年11月15日 15:08
ここから↓は、 『高橋信次霊言集』を読む その53 のコメントです。
大和 春道 2006年11月14日 17:18 さらん(‾???) 2006年11月14日 15:12 スポンサーサイト
|
9.『高橋信次霊言集』を読む⑨ :: 2006/11/19(Sun) |
20061119 00210 9.『高橋信次霊言集』を読む⑨
五章 足ることを知る より(下)
善意なる第三者の立場で己の心を見つめ直せ
この部分を、一言で言うならば、「独りよがりになるな!」ということでしょうね。色んな人の立場を知り、そうした目で、自分自身を見つめ直すことが大切だということ。そして、そのためには、世間を知る必要があるのですね。色んな人々と接して、色んな経験を積むことによって、色んな視点を持つことができるのです。自分だけの見方が正しいなんて思うのは、大きな間違いなのです。色んな見方があるのです。まず、それを知ることです。
こういうことをいうと、「目を外に向けてはいけない。目を内に向けよ。答えは内にある」という教えに反する考え方だという人もいるでしょう。しかし、そういうのは屁理屈なのですね。やはり、この世に生まれて来た限りは、この世で何かを経験する為なのです。ただ、心の内側ばかり見つめるだけなら、この世に生まれてくる必要などないのです。それだけならば、あの世でできることなのであります。
この地上世界は、様々な霊格を持った人々が交流することができる唯一の場なのであります。交流することで相互に磨き合うことができるのです。芋洗い方式です。色んな大きさ、色んな形の里芋を、一つの桶にぶち込んで、棒でかき回し、ゴシゴシやっているのと同じなのです。あの世は、「類は類をもって集まり、類でないものは反発し合う」法則によって、多次元世界となっています。霊格によって層ができているのです。だから、通常、六次元界の住人と八次元界の住人が、直接交流することはないのです。
要するに、あの世では、同じレベルの人々と暮らしているのですね。そういう状態では、磨き合うことが難しいのです。相手が自分と似たり寄ったりの考え方をしていると、その相手から、あまり学ぶものがないのですね。ところが、地上世界というのは、四次元霊界のレベルから九次元宇宙界のレベルの人々まで、ごちゃ混ぜになっています。また、地獄界の影響を受けて、地獄的に生きている人もごちゃ混ぜになっています。これは、多次元宇宙の中でも特殊な世界なのです。非常に学習効果が高いのです。
たとえば、六次元界の人と四次元界の人が交流しているとします。四次元界の人は、六次元界の人にたくさんのことを学ぶことができるでしょう。しかし、六次元界の人は、四次元界の人から学ぶことがないのではないか、と思うでしょう。しかし、そうではない。六次元界の人は、四次元界の人を正しく導く使命があるのです。指導者として、人を導いていく・・・・・・、この過程で、非常に多くのことを学ばされることになるのです。あの世で、同じレベルの気心の知れた仲間と楽しくやっているだけでは、決して学ぶことのできないことを、この地上において、私たちは学んでいるのです。
だから、せっかくこの世に生まれてきた限りは、色んな人々と交流して、色んな経験を積みなさい、ということを霊言では語られているのだと思うのです。決して、外側に答えを求めよとか、そういうことをいっているわけではないのですね。色んな体験を通して、本当の自分自身を求めて行きなさいということだと思うのです。現代社会の成人男性は、サラリーマンが大半ですが、そうした生活にどっぷり浸かっていると、非常に世間が狭くなって行く場合があります。私も、振り返ると、「ああ、失敗したな」と思います。非常に世間知らずで、経験に乏しいです(^^;。これでは、この世に生まれてきた甲斐がないのですね。あの世に帰ったら、もう会うことができないような素晴らしい人々が、同時代に何人も出てきているのに、そうした人々と交流することができなかった。非常にもったいないことをしたと思います。
やはり、せっかく、こうしたチャンスに恵まれているのだから、私たちは、自分よりも立派な人と、どんどん交流して行くべきだと思うのです。そうすることで、独りよがりの考え方から脱却して行くことができるのではないでしょうか。自分だけの世界の中で「ああだこうだ」と考え込んでみても、堂々巡りするだけなのです。色々経験して、色々学んで、そして、色んな見方ができるようになって行くだと思います。
自分を真に客観視できる人は、劣等感や優越感から解放される
たいていの人は、自分を冷静に客観視できない。過大評価か過小評価の両極端にブレて行く。そうした両極端は、本当の自分ではないのです。本当の自分はダイヤモンド、磨けば光り輝くダイヤモンドなのです。だから、自己卑下してはいけないのです。神様がダイヤモンドとして創造してくれた自分の生命を、つまらないものだと勘違いしては、神様に申し訳ないのです。また、本当の自分自身にも申し訳ないのです。
といって、本当のダイヤモンドの姿を現していない現状の姿を、過大評価してもいけないのです。ダイヤモンドの自分に関しては、どれだけ高い評価を与えても、与え過ぎるということはないのですが、偽我の自分を過大評価して、驕り高ぶるのは、非常に見苦しいことです。そういうのは、本当の自信とは言えないのです。病気になったり、失恋したりすると、アッという間にペチャンコにつぶれてしまう偽りの自信であります。
また、自分の本質が誰にも負けないダイヤモンドであるならば、他の人の本質も、誰にも負けないダイヤモンドであるということに気づかなければなりません。これが分かると、他と比較して、劣等感を感じたり、優越感に浸ったりすることが、如何に間違った心であるかということが、ハッキリしてくるのであります。自分も「神の子」ならば、他の人も「神の子」なのです。他の人が、どれほど輝いて見えたとしても、自分の内側にも、それに負けないぐらいの光が秘められているのです。
要するに、自分を客観視するというのは、本質であるダイヤモンドの自分と偽我の自分の両方を客観的に見るということなのです。本当の自分と偽りの自分をハッキリ見分けるということです。これができるようになるためには、やはり、色んな物の見方ができなければ無理なのです。多角的に見る。複眼的に見る。これができないとなかなか本当の自分というものが見えてこない。
たとえば、全財産が100万円だとする。これは、「お金持ち」なのか、「貧乏」なのか、どう見るか。たとえば、全財産が10円の人から見れば、「お金持ち」に見えるかも知れない。億万長者から見れば「貧乏」かも知れない。百年前の話しなら、「お金持ち」と言えるだろうが、現在の話しならば、「貧乏」だと言えよう・・・。このように、視点によって、「貧乏」にも、「お金持ち」にも、見えるのです。ところが、一つの視点でしか見ることができない人は、自分は「貧乏」だと嘆き悲しんだり、自分は「金持ち」だと勘違いして、調子に乗ってしまったりする。
しかし、多角的に見ることができるようになると、「全財産は100万円」だと冷静に見ることができるようになってくるのです。大金持ちと比べれば、貧乏だろう。しかし、世の中には、餓死する人々も大勢いるのだ。それを思うと、「自分は恵まれているな」と感謝の気持ちが湧いてくるものです。このように、色んな物の見方ができると、自己卑下や慢心から、自分自身を解放することができるのであります。これが客観視するということです。
客観視で大切なのは、悲観的な見方になってはいけないということです。たいていの場合、人間というのは悲観的に見る傾向にあります。「どうせ、うまく行くはずがないんだから」、こういう気持ちがあるんですね。そう思っておいた方が、後で悪いことが起こってきても、その時に受けるショックが少なくなるからというわけです(^^;。これも一つの考え方なのですが、何でもかんでも、悲観的に見てしまってはいけないのです。やはり、楽観的に見るほうが、色んな面で良いのです。
人間は、悲観的、楽観的、どちらの見方でも選択することができるのです。一本の道を歩んでいるとします。左手は大自然の素晴らしい景色です。海あり山あり川あり湖あり草原あり・・・。しかし右手は地獄のような陰惨な風景です。汚染されてしまった死の大地です。左手も右手もどちらも現実です。その境目の道を旅しなければならないのだとすれば、さて、どちらを見ながら歩いてゆくでしょうか。わざわざ、気の滅入るような右手の風景を見ながら旅するでしょうか。そんなことをしても何のプラスにもならないのですね。
やはり、左手の天国的な風景を楽しみながら、ゆったりとした気持ちで旅する方が良いに決まっているのです。右手に地獄的な風景が展開していることは分かっている。しかし、そこから目を背けて、天国的な風景を見ることが、現実逃避なのでしょうか?逃避でも何でもないのです。人間は、どちらかを自分で選択することができるというだけのことなのです。どちらを選ぶかは、本人の意思です。しかし、わざわざ、気分が滅入るほうを選択して、そして「苦しい。人生は苦しみに満ちている」と嘆く必要はないのです。左を見て、「ああ、でも左側はこんなに素晴らしい!私は左側を見ながら旅しよう」、と決めて、美しい風景を選ぶことができるのです。
悲観的な見方と楽観的な見方も同じことなのです。自分自身で決めることができるのです。なぜ、楽観的な見方を選ばないのでしょうか?最悪の事態を想定することも大切です。それも必要なことでしょう。しかし、最悪の事態ばかりにとらわれる必要はないのです。そうなる確率が最も低いから「最悪の事態」というのです。滅多に起こることではないのです。それなのに、きっとそうなるに違いないと思って、それが起こる前から嘆き悲しんでいるなんて、どこかおかしい。それならば、もっと楽観的に見て、開き直ったほうが、精神衛生的に見ても良いのですね。五分五分の確率ならば、絶対に楽観的な見方をしたほうが良いです。
「取り越し苦労」というのは、精神エネルギーを奪い取る吸血鬼なのです。どんどんエネルギーを奪われてしまうのです。逆に楽観的な考え方はリラックスを生み、笑顔を生み出します。笑う門には福来るであります。明るい考え方、楽観的な考え方、笑い、幸福、喜び・・・・・・。これらは「類」であります。「類は類を持って集まる」という法則があるのです。悲観的な想念は、悲劇を呼び寄せ、楽観的な想念は、幸福を呼び寄せる、これは、法則なのです。だから、私たちは、自分自身を客観的に見るときも、ある程度、楽観的な物の見方が大切となってくるのです。
善我は善我、偽我は偽我としてハッキリ見分けなければなりませんが、偽我は本来の自分自身ではないのですから、あまりにも深刻に捉える必要はないのです。やはり、善我のほうを重視して、「我、神の子なり」の自覚を深めていくほうが、絶対によいのであります。善我を重視して見る、それが楽観的に見るということです。非常に大切なことなのです。
人身うけ難く、正法にあい難し
人間に生まれて来たということ自体が、大きな幸せかもしれないという視点。これは盲点であります。あるいは五体満足であることの幸せ、目が見え、耳が聞こえ、語ることができることの幸せ、こうした幸せを、私たちは思い出す必要があるのです。人間に生まれて来たこと、五体満足であること、決して当たり前のことではないのですね。これだけでも、本当は大感謝しなければならないことだと思うのです。
また、「正法」に出会うことができたこと。これも、本当に幸せなことです。人間というのは、ある程度、心の浄化をしないことには、心の内側だけ見ていても、本当のことは分からないのです。薄汚れたままの心、これを自分自身の本当の姿だと思い込んでいる人もいるのですね。確かに、心の内側に神様がいるのでしょうが、たった一人の力で、それに気づくことができる人というのはいないのです。お釈迦様なんかも、「無師独悟」と言いながら、実際は「我以外みな我が師」の精神で「悟り」を求めてきたのです。「宝(たから)」は「他から(たから)」来る。だから「宝(たから)」と言うのだそうです(^^;。ま、駄洒落のようで、実際本当のことなんですね。
やはり、最初は何らかの「導き」が必要なのです。私たちは、師や友や書物などを通して、「正法」に出会うのです。そして、それがきっかけになって、心の内側に目が向くことになるのです。南海の孤島で一人暮らしているならば、「正法」に出会うこともないでしょう。そして、「正法」に出会うことなく、偉大な「悟り」に到達することは、本当に至難の業だと思います。こうした「宝物」である「正法」に巡り会えたこと、これは本当に幸せなことなのであります。しかし、そのことに気づくこともなく、自分の浅知恵を誇り、「正法」に難癖をつけて、偉大な指導者たちをボロクソに批判して、自分こそ最高の智者であるかの如く錯覚しているような人々が大勢いるのです。
あまり、そういうことばかりやっていると、「正法」に帰ることができなくなってくるのですね。批判してしまうと、途中で、その方向に、慣性の法則が働くので、内心、「良いこと言ってるな」と思うときがあっても、褒めることができなくなってしまうのです。たとえば、Aという歌手がキライだとします。ある時、ラジオから、すごく素敵な曲が流れる。で、「これは良い曲だな。誰の曲かな?」と思う。そして、曲が終了して、Aの曲だと紹介があったとする。さて、どうでしょうか。おそらく、良い曲だと思ってしまった自分を恥ずかしく思い、「やっぱり、たいした曲でもないな」と考えを変更するのではないでしょうか?
人間には、そうした心理が働くようです。批判している相手を認めるのは、何だか自分が負けを認めたような感じがして、プライドが許さないのです。でも、心の底では、「良い曲」だなと思っているのです。偽我の心が生まれてしまうのですね。ま、そうした感じで、偽我がどんどん膨らんで、とうとう、「正法」と決別してしまうようなことになってしまうのです。これは非常に残念なことです。だから、「批判」というものは、本当に慎重にしなければならないと思います。
脱線しました(^^;。とにかく、「人身うけ難く、正法にあい難し」(注1)と申します。ところが、私たちは、人間として生まれ、そして「正法」に出会うことができたのです。この意味が本当に分かっている人は、決して自分のことを「不幸だ」などとは言わないはずであります。本当は、これだけでも大いに感謝しなければならないことなのです。猿やイノシシに生まれていたら、高橋信次先生の本を読むことができなかったのです(^^;。また、人間に生まれても、「正法」に巡り会えない人も大勢いるのです。出会っても気づかない人、批判して決別して行く人、様々です。
人身をうけ、正法に出会い、それが正法だと分かったということ、これがどれ程、素晴らしいことであるかということを、もう一度よく考えてみることだと思います。この意味が分かれば、「足ることを知る」という意味も、自ずから見えてくると思います。
二者択一問題です。
感謝すること、それが「足ることを知る」につながる
結局は「感謝」ということです。今すでに、与えられているものに「感謝」できるかどうか。本当にできるという人は、もう既に、「足ることを知る」ことの意味を知っているということです。「感謝」できないという人は、「感謝」できる気持ちになるまで、本当の意味での「足ることを知る」ということを知ることはできないということです。
「貧乏な家に生まれた」とか、そうしたことに対して愚痴を言いたくなる気持ちは分かるけれど、そんなことばかり言っていても、何も始まらないのですね。貧乏の家に生まれても、成功した人は幾らでもいます。金持ちの家に生まれて、ダメになった人も幾らでもいます。幸・不幸の本当の原因は、生まれ育った環境や境遇じゃないってことです。各人の心の状態にあるのです。各人の心には選択の自由があるのです。何を選択していくかで、幸・不幸が分かれてくるのです。
だから、貧乏の家に生まれても幸せになって行く人もいれば、金持ちに生まれて不幸になって行く人も出てくるのです。もし、環境・境遇で決まってしまうのなら、努力など無意味なのです。努力によって道が開けてくるということは、すべての人間に、無限の可能性が与えられているということなのです。
あるいは、人間は、時間のもとに平等だと言われています。どんな金持ちも、どんな貧乏人も、一日の持ち時間は24時間です。赤ちゃんもおばあちゃんも、24時間です。23時間の人や25時間の人は、いまだかつてなかったのです。この一日の24時間をどう使っていくかで、道が分かれて行くのです。
このように、人間は可能性と時間においては平等なのです。これは大いに感謝すべきことなのです。これが、不平等ならば、神様に文句の一つも言ってやればよいでしょう。しかし、よくよく考えてみれば、平等なのです。金持ちに生まれることは、必ずしも有利ではないのです。貧乏人に生まれることが、必ずしも不利ではない。この世とあの世という永遠の視点で見るならば、地上での境遇や環境というのは、各人の魂修行にとって、最も適切なものなのです。だから、不平不満ばかり言っていないで、「感謝」するということについてもっともっと考えてみる必要があるのです。
「感謝」を忘れている人は、まず、意識して、感謝すべきことを見出していかなければ、恐らく、「感謝」の心を思い出すことができないでしょう。たとえば、「目が見えること」、これだけを考えてみても、私たちは大いなる感謝を捧げなければならないと思います。耳が聞こえること、どこも痛くないこと、こうした当たり前のことが、本当は「感謝」しなければならないことなのです。ところが、それをまったく忘れていますから、私たちは、意識して「感謝」のタネを見出していかなければならないと思うのです。当たり前と思っていることが、実は、当たり前じゃないんですね。それを思い出す必要があるのです。
そして、「感謝」に対する感覚が強まってくると、だんだん神様の無条件の愛というものが分かってくると思うのです。私たちは、神様の無条件の愛と慈悲の中で生かされている。このことが分かって来ると、おそらく、意識的に「感謝」するまでもなく、あらゆることに対して、自然に「感謝」の思いがあふれ出てくるようになると思います。
それか、思いっきり頭を打つかですね(^^;。大病を患うとか、倒産するとか、大失恋するとか、こうした大きな苦しみにぶち当たって、人の情けを知って、ようやく「感謝」とは何かということが分かって来ると思います。そして「感謝」が分かってくると、「足ることを知る」ということも分かってくるということなのです。実は、日常生活の中で意識しながら感謝することは、意外に難しい。しかし、病気などをすると、自分の弱さを知り、人の情けのあたたかさが身に染みて、「感謝」ということを思い知らされるのです。それが、心豊かな人間へと生まれ変わるきっかけとなることが多いのです。
有名人の体験談などを聞くと、臨死体験をしたとか、戦場で九死に一生を得たとか、大病を患ったとか、大失恋したとか、会社が倒産して家族が離散してしまったとか、とんでもない体験がきっかけで生まれ変わってしまったという話しが多いです。これは、そうした体験を通して、「感謝」ということを学んだということだと思うのです。大きな苦しみにぶち当たったほうが、深く学ぶことができるということでしょうね・・・・・・。
とにかく、だから、「感謝」ということが非常に大切だと思います。「感謝」できる人は、「謙虚」を知っているし、「足ることを知る」意味も分かるし、「与える愛」ということも分かると思うのです。これらは「類」ですね。でも、地上の人間にとっての出発点は「感謝」ではないかなと思います。「有り難い」「ありがとう」という気持ち、これを本当に知ることが、すべての出発点だと思うのであります。
コメント (1 件)
大和 春道 - 2007年 4 月 13 日 ここから↓は、 『高橋信次霊言集』を読む その50 のコメントです。
大和 春道 2006年11月11日 18:39
さらん(‾???) 2006年11月11日 12:35
ここから↓は、 『高橋信次霊言集』を読む その48 のコメントです。
大和 春道 2006年11月10日 18:26 |
8.『高橋信次霊言集』を読む⑧ :: 2006/11/19(Sun) |
20061119 00209 8.『高橋信次霊言集』を読む⑧
五章 足ることを知る より(上)
唯物論は閉ざされた世界観
正法神理の立場からいうならば、「唯物論」というのは、最大の勘違いなのですね。これほど神様と神の子人間を侮辱した思想はないのであります。ただ、残念なことに、この「唯物論」の間違いを、この世において証明することはできないのです。だから、どうしても「神」や「霊的世界」に関しては、「信じる」ということが必要になってくるのです。
三次元宇宙空間というのは、四次元以降の多次元宇宙の一部分にしか過ぎないのですね。下位次元の世界は、上位次元の世界に包含されているのです。上位次元の世界からは、下位次元の世界のことは、良く見えるのですが、下位次元の世界から、上位次元の世界をハッキリ見通すことは、なかなかできないのです。
たとえば、二次元の世界に生物がいたとします。それらは全て厚みのないヒラメのような生物であります。こうした生物には、三次元の立体的な生物を理解することはできないのです。ところが、三次元世界の生物は、平面の世界のことを理解することができるのですね。立体の三次元世界は、それ以下の次元の世界、点や線や平面の世界を含んでいるからです。
しかし、点は線を含むことができない。線は平面を含むことができない。平面は立体を含むことができません。同様に三次元立体の世界は、四次元世界に含まれていて、四次元世界を含むことができないのです。だから、四次元の世界の住人は、三次元以下の世界のことが、手に取るように分かりますが、三次元以下の世界からは、四次元世界のことを、完全に理解すること、どうしてもできないのです。
しかし、理解できないから、存在しないと割り切ることはできないのです。やはり、四次元以降の世界が存在すると考えた方が、より大きな視野に立つことができるのです。三次元世界が全てだという考え方、すなわち「唯物論」の世界観は、三次元空間に人間を閉じこめてしまう閉ざされた世界観なのです。人間は、塵あくたの寄せ集めで、八十年ぐらいしたら、また、塵あくたに戻って、消えてしまう。それならば、八十年の間だの「思い」も「行い」も、自分自身にとっては何の意味もなくなってしまう。結局、自分自身が、消えてしまうから・・・。非常に物悲しい考え方であります。
死んで終わってしまうのなら、すべての努力に、一体、何の意味があるというのだろう。何のために、生まれ、何のために生きているのだろう。唯物的な人の中には、こう思って、「自殺」してしまう人も出てくるのです。しかし、「正法神理」の世界観は違う。生命は永遠であると考える。死後の世界があると考える。世を儚んで「自殺」しても、自分自身は消えて無くなってしまわないのです。肉体は消滅しても、魂は依然として生きている。そして、この世で苦しんでいたのと同じ心の状態で苦しみ続けているのです。慣性の法則が働いているのです(注1)。そして、肉体が失われ、霊体となっているために、感覚が、地上界よりも遥かに鋭敏になっているそうで、苦痛は何十倍何百倍に増幅され、それこそ地獄の苦しみとなる。
だから、苦しみの心の状態で自殺してしまうと大変なことになってしまうのですね。苦しみから解放されるために「自殺」したところが、生前の苦しみよりももっと苦しまなければならないことになる。だから、苦しみから逃れるための「自殺」はお勧めできないのですね。死ねば終わるという考えも、死んだら極楽にいけるという考えも、共に、慣性の法則を無視した考え方なのです。
この世で積み重ねた「思い」も「行い」もすべて、自分自身の経験として蓄積されて行く。善き「思い」、善き「行い」は、自分を向上させ、その反対の「思い」と「行い」は、自分の心を曇らせて行く。この世のすべての経験は自分に返ってくる。この世での経験のすべてに意味があるということであります。ここに、希望があるということです。
死ねば、すべてが灰になってしまうのなら、この世でどれだけ努力しても、最後にはリセットされてしまって、すべて消えてしまう。人間の存在そのものが消滅してしまう・・・・・・。空しいだけです。しかし、命が永遠に続いているのであるならば、すべての努力は報われるということになるのです。この差は、天と地ほどの差であります。死ねば終わりならば、自己中心的に、刹那的に生きるのが一番得なのです。しかし、肉体が死んでも、魂が生きているのなら、考えを改めなければならないと思うのです。
このあたりのことを「唯物論」の方たちは、一度、真剣に考えなければならないと思います。自分のやったことは、すべて自分に返ってくるということ、これは因果応報の理といって、この世とあの世を貫く法則なのです。物質世界から霊的世界へ移行するけれど、「原因結果の法則」には切れ目がないのです。分断されるということがないのであります。自己責任なのですね。この世で悪事を重ねて、この世で裁かれなかったとしても、決して逃れたことにはならない。
すべてはブーメランのように自分のところに戻ってくる。あの世に帰った時に、絶対に裁かれることになるのです。その時に、「あの世があるなんて、知らなかったから、許しくれ」と、どんなに泣いて許して、欲しいと願っても、自業自得なのです。法則ですからどうしようもありません。自分が撒いたタネを自分自身が刈り取るだけのことなのです。それだけのことを自分がやったのだから、それ相当の報いを受けることを覚悟しなければならないのであります。
「唯物論」の方は、こうしたことを考えた上で、納得して「唯物論」を信奉したほうが良いでしょう。死んで、あの世があった時に、あわてなくてもすみますから(^^;。
多次元世界を知り、そして、「足ることを知る」の意味を考える必要がある
第五章のテーマは「足ることを知る」です。「足ることを知る」ことの大切さを説こうとしているのですが、いきなり、「足ることを知ってはいけない」という話しになっています(^^;。ま、言葉というのは、本当に不自由な部分があります。頭の中では、分かっていても、言葉で説明しようとすると、矛盾した表現になってくるので、非常に苦労することがあるものです。
この三次元という世界をすべてだと思って生きている人と、「あの世」というものを見据えて生きている人とでは、考え方が正反対になってしまう場合が多いのです。現代社会においては、「この世がすべて」派が多数派で、「あの世も見据える」派は少数派なのです。そして、何時の時代でも同じことでありますが、多数派は良識的な人たち、少数派はおかしな人たちというレッテルが貼られてしまいます。しかし、それでは困る、ということであります。三次元世界という閉ざされた空間に安住して、それが全てで、わずか八十年の人生が自分の持ち時間の全てだと勘違いして・・・・・・、そうした「井の中の蛙」のままで、足ることを知ってもらっては困るということです。
「足ることを知る」というのは、「欲望」に対する戒めなのです。あるいは、「執着」になってはならないという戒めです。たとえば、「神の教え」を伝道すること、これは尊いです。一人、二人と、どんどん伝道した人数が増えて行くことは、良いことです。こういう良いことに関しては、通常「足ることを知る」必要はないのです。しかし、こうした良いことであっても、それが執着になってしまうと、おかしくなって行くのです。
そういう人たちは、何日までに、何人伝道する、といったノルマを決めて、そして、そのノルマに束縛され、相手の気持ちなど考えない自己中心的な伝道に明け暮れるようになってしまいます。救われる人のことよりも、伝道した人の人数のグラフのほうが気になり始める。こうなってしまうと、もう本末転倒であります。
本当ならば、伝道した人の人数よりも、伝道した人たちが「幸せ」になっているかどうか、このことが気にならなくては嘘なのですね。ところが、ノルマの達成に執着してしまう人が多いのです。教祖なども、そうしたことに執着し始めると、おかしくなって行きます。やはり「足ることを知る」ことが大切なのです。量より質ではないのか?グループの人数が増えたからといって、それが烏合の衆では何の意味もありません。やはり、グループ全体の質が大切だと思うのです。質を向上させて行くためには、無茶な勧誘を控えて、じっくり伝道して行くという姿勢が大切です。人を導いて行くことは、即席ラーメンではないのですね。ワイン作りと同じだということです。手間ひまかけて、じっくり育てて行く。これが本物作りです。
促成栽培型の伝道をやると、短期間で、グループの人数を急増させることができるかもしれない。しかし、本物が育っていないのだから、すぐに、ゴタゴタし始めて、おかしくなってしまうものです。まず、内部を固める、そして外へ向かって発展して行く。まず土台作りをしっかりする、そして柱を建てる。「内から外へ」、「土台から柱へ」であります。
このように段階を踏んで行くためには、やはり「足ることを知る」精神が必要なのです。イケイケドンドンは、景気が良くて、楽しいけれど、どうしても土台作りを疎かにして、うわべだけを取り繕ってしまうことが多いのです。地味なことをやるよりも、派手なことをガンガンやるほうが楽しいからです。しかし、そういうやり方は、ある程度まで伸びるけれど、途中から頭打ちになってしまうことが多いのです。それは、土台がしっかりしていないからです。重みに耐え切れなくなってくるのですね。
今、背伸びしてガンガン行けば、大きく伸びるのは分かっている。そうしたいのはやまやまだ。けれども、土台がしっかりしていない以上、今は、見送るしかないのだ・・・・・・。今の時代、こうした「足ることを知る」考え方は、消極的だということで、バカにされがちであります。しかし、決して消極的ではないのです。より大きく発展するためには、土台をしっかりしておくことが大切なのです。だから、土台作りを重要視するということは、発展繁栄につながる積極的な考え方なのです。
「足ることを知る」ということは、どんどん縮小して行って、原始時代に戻ることではないのです。質と量のバランスを保ちながら健全に発展繁栄していくためには、「足ることを知る」という発想が非常に重要となってくるのであります。
自己中心の生き方は、結局自分のためにならない
神様の心に沿った生き方を学ぶ前に、まず、どう行った生き方が間違っているのか。その最大の間違いは、「唯物論」にあるということでした。ま、根っこは、ここにあるということです。「この世」だけが全てであるという考え方が、根っこにあって、そこから色んな間違って生き方が生まれてくる。
人間なんてものは、偶然にわき出てきたもの。アメーバに毛の生えたようなものだ。何十年か生きて、そして、死んで灰になって、それで終わりだ。それならば、己の欲望をトコトン満たさなきゃ「損」だよ。誰もが、自分の欲望を満たそうとしている。これは戦いだ。誰かが、楽をすれば、誰かが苦しい思いをする。それならば、楽をする側になりたい。そういう生き方の何が悪いのだ。自己中心に生きて何が悪いのだ。自分さえ良ければ良いのだ。まず自分が良くなることだ。自分が良くなってもいないのに、どうして他人の心配をしなきゃならないのだ・・・・・・。こういう感じで、唯物的な人生観というのは、突き詰めて行くと、どうしても、自己中心的な人生観となって行くのです。
この「自己保存・自我我欲」に翻弄される生き方が、間違った生き方だということなのです。表面的なもので人を判断することは難しいのです。大統領であろうが、裁判官であろうが、学者であろうが、大社長であろうが、宗教家であろうが、「自己保存・自我我欲」の気持ちで生きていたならば、そうした地位や肩書きに関係なく、間違った生き方をしていると言わざるを得ないのであります。
学歴、職業、地位、名誉、財力、名刺の肩書き、こういうものを人生の目標にして、自分中心に生きることは、神様の御心に適った生き方ではないのです。人類全員が、「自己保存・自我我欲」のままに生きる世界が、果たしてユートピアだと言えるでしょうか。この地上世界に、人類が自らの力で、ユートピアを打ち建てること、これが神様の御心ではないでしょうか。つまり、「自己保存・自我我欲」に生きるのではなくて、「愛」に生きることこそ、神様の御心に適う生き方ではないだろうかと思うのです。
この世的に脚光を浴びたい、評価されたい、有名になりたい、資産家になりたい・・・・・・、こうしたこの世的な価値基準で、己の欲望を追い求めところから、苦しみの人生が始まって行くということなのです。
有名大学を卒業して、有名会社に入って、美人と結婚して・・・・・・。こうしたことを延々と自己中心的に求め続けて行く。しかし、やがて、どうしても思い通りにならない部分が出てくる。理想と現実のギャップが生まれてくるのです。このギャップが苦しみとなって行くのです。自分の思い通りにならない苦しみです。こうした時に「足ることを知る」ことができたならば、苦しみは軽減されるのです。
しかし、どうしても「足ることを知る」ということができないのですね。どうしても、欲望を満たしたい。それは何故かというと、要するに、三次元世界という井の中の蛙だからであります。神の存在を認めないからです。「あの世」という多次元世界を知らないからです。本当の価値基準が分からないからなのです。だから、自己中心から脱却することができない。
本当の価値基準を学べば、この世的な成功というものが、如何に空しいものであるかが分かってくるのです。そして、「足ることを知る」ということの意味が分かってくるのです。しかし、「この世」だけが全てであると思い込んで、盲目的に生きている間は、決して分からないのです。勝ち上っていくことが成功だと思っている間は、「足ることを知る」ということを本当に知ることはできないのです。「足ることを知る」なんて、どう考えても、単なる敗者の理論としか思えないのですね。「そんなことで満足していたら、一瞬で負け組に転落してしまう。満足したとき、人間の成長は止まるのだ」、ま、こうしたことを考えてしまいます。
両極端を捨て、中道に入り、己の正しい心に問うこと
「自己保存・自我我欲」のままに生きていると、常に自己が中心ですから、善意の第三者的な視点に立つことができなくなってしまうのです。自分中心でありながら、自分自身を正しく見ることができなくなってしまうのです。本当の自分が見えなくなってしまっているのです。だから、他人のほうが、その人のことが良く見えているというようなことになってくるのです。自分に一番関心を持っているのに、自分のことが良く分かっていない。だから、自己評価と他人の評価に大きなギャップが生まれてくるのです。しかも、往々にして、他人の評価のほうが正しい場合が多いのであります。
他人の評価というのは、実に難しい面がありまして、あまり、信用できないものですが、意外に真相を突いていることも多いのであります。ともかく、第三者の立場に立って、自分自身を客観的に見る努力をする必要があるのです。こうした姿勢がないと、考え方が、両極端にブレてしまうのです。人間にはタイプがあるのですね。外向的な人、内向的な人。楽観的な人、悲観的な人。積極的な人、消極的な人・・・・・・。このように二極化してゆく場合が多いのです。だから、第三者的な視点がないと、どうしても、自分のタイプの方向に極端にブレいくことが多いのです。
「自分はすごい人間だ。自分ほどすごい奴はいないのではないか」、ま、こうした人も時々います(^^;。しかし、第三者は、まったくそうは見ていないのです。色んな欠点が見えるのですね。他人の欠点というのは、本当によくみえるものです。このギャップを埋めるには、他人の見方を変えるか、自分の自己評価を変えるか、どちらかです。他人の評価を変えるためには、自分のどこが、そうした評価につながっているかを冷静に見て、そして、その部分を修正して行くしかないありません。でも、自分を客観視できない人間には、そうした芸当ができません。
だから、結局は、まず、第三者的な目で、自分を冷静に見つめることが出発点になるということなのです。まず、中立の立場で己を客観的に見る。そういう努力をしていると、必ず、自分の短所や欠点や長所が、見えてくるはずです。そうして、正当な自己評価に近づいて行くことができるのです。その結果、他人の評価と自己評価のギャップが埋まって行くことになるのです。
もう少し突っ込んでいうと、まず、自分の立場から見る、次に相手の立場に立って見る、その次に、自分の尊敬している立派な人(あるいは高級霊)ならどう見るかを考える、そして、最後に神様ならば、どう見るだろうかと考える。このような感じで、色んな立場で考えてみるのが良いのです。コップでも見る角度によって、丸く見えたり、四角に見えたりするものです。色んな角度から観察して、ようやくコップの形の全貌が見えてくるものです。
「心行」に、こう書かれています。
色々な立場で考えてみて、最終的に神様の御心はどこにあるのかを考えること、これが、己の正しい心に問うということだと思います。これが「反省」の入り口(注1)であります。「中道を根本として」という意味は、「神様の御心を基準にせよ」という意味であります。独りよがりの理論理屈で、色々と考えてみても始まらないのです。自分の立場をいったん忘れ、相手の立場に立ってみる、第三者の立場に立ってみる、聖人ならば、高級霊ならば、どう考えるだろうか、考えてみる。このように色々な角度から考えてみて、より高次な考え方を求めて行く必要があるのです。
色んな角度から見ることです。そうすると、短所も見えるけれど、長所も見えてくるのです。短所ばかり見ていてはいけない。長所ばかり見てもいけない。自己卑下する必要はないのです。良い面もあるのです。また、過大評価してもいけない。足りない面もたくさんあるのです。落胆してもいけない、慢心してもいけない。正当に見ることです。そして、自分の性格に合わせて、自分を活かす方向に評価することが大切です。
たとえば、反省心の強い人は、自分の欠点をあまり見つめ過ぎないことです。反省心の強い人は、無意識のうちに自分を責めています。だから、意識的に自分を褒めることをしないと、心のバランスを崩してしまうのです。自分をろくでもない人間だと思い込んでしまうことになる。しかし、周囲の人は、立派な人だと見てくれている場合が多いのです。だから、そういうタイプの人は、自分の長所を大きく見ることだと思います。大きく見ることで、丁度良いのです。反省心の強い人は、長所でも長所だと見ないで、当たり前だと見る。だから、自分には長所が少ないと思っている。これでは「自分」というものが可哀想なのです。長所を大きく見る、それで丁度良いのです。
あるいは、イケイケドンドンの人。これは、反省心の強い人と正反対です。お調子者です。積極的で明るいのは良いのだけれど、軽すぎる(^^;。短所でさえ、長所だと思い込んでしまう。長所に関しては、もう、イエス・キリストを越えてしまうぐらいの長所だと思い込む。こういうのも、バランスが崩れているのです。己の性格を知り、もっと慎重さを身につける必要がある。しかし、積極的で明るい長所を駄目にしてしまってもいけない。要はバランスであります。極端にブレてはいけないということなのです。
こうした見方が中道的な見方なのです。己の性格を考慮に入れることが大切です。十把一からげというわけには行かないのです。十人十色です。それぞれに合った中道の自己評価があるのです。タイプ別の見方があるのです。そうした中道的な見方をすることが大切なのだと思うのであります。
「中」というのは、なかなか難しいテーマです。色々な考え方があるようです。たとえば、A地点とB地点のちょうど中間という意味。A地点にもB地点にも片寄っていない。これが一番分かり易い「中」です。或いは、ギターの弦などのチューニング。きちんとチューニングされた時、そこが、「中」なのです。きつく張り過ぎても、たるみ過ぎてもいけない。一定の高さの音が出るところにピタッと合わせなければなりません。そのピタッとあったところが「中」です。こうなってくると、AとBの「真ん中」というような単純なものではないのですね。
どんなことにでも、その人独自のピタッとしたところがあるのですね。一人一人の個性によって、そのピタッとしたところは微妙に異なるのです。だから、非常に難しい面がある。一律ではないのです。算数の問題ならば、誰が考えても答えは一つですが、人生の問題は、百人いたら百通りの正解があるということなのです。それぞれの中道があるということなのですね。だから、人は人、自分は自分でいいのであります。ただ、中道であるということ、自分にピタッとした答えであることが大切なのです。
人と違うことを無理にする必要はないのです。個性を主張するために、際だたせるために、わざと、素っ頓狂な答えを出して、一人悦に入っている人がいますが、こういうのは「鬼面、人を嚇す」タイプの人でありまして、本当の自分を押し殺して、仮面をかぶって、誤魔化しているに過ぎないのです。自分にピタッとあう見方、自分の良心の声の命ずる生き方、これを探究しなければならないのです。第三者の目で見るというのは、そういうことなのです。自分の個性を、模範解答に無理矢理あわせろという意味ではない。自分独自であっていい。しかし、それは、わざと突飛な考えをするのではなく、自分の心の奥から流れ出てくる自然な感情の発露でなければいけないと思うのです。
私たちは、人に気に入られようとして、いい子になったり、逆に、人と違うことをして目立とうとしたりして、本当の自分自身の自然な姿を誤魔化し続けてきたのです。そして、本当の自分自身を見失ってしまったのであります。それを取り戻すためには、両極端にブレてしまった自分を客観的に見つめ直すことから始めなければならないということであります。
コメント (1 件)
大和 春道 - 2007年 4 月 13 日 さらん(‾???) 2006年11月5日 14:09 |
大地を枕に-元気ですか? 僕は元気です。- |
|
|
Author:大和春道 |
|
|